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ギリシヤの撥亂 西洋史新話第一卷 箕作元八著 ##東西文明《とうざいぶんめい》の代表國《だいへうこく》 [#2字下げ]四大文明國の衝突融合……東西最初の衝突……太古諸國の興亡……ペルシヤの勃興……ギリシヤの國情……スパルタ人の氣風……アテネ人の氣風  一個《ひとり》の人《ひと》と一個《ひとり》の人《ひと》との間《あいだ》でも、互《たがひ》に自分《じぶん》の力《ちから》を振《ふる》はうとすると、其處《そこ》に喧嘩《けんくわ》が起《おこ》つて來《く》る。喧嘩《けんくわ》が起《おこ》ると、甲《かふ》が勝《か》つか乙《おつ》が勝《か》つか、何《いづ》れかゞ一|方《ぱう》を征服《せいふく》する。それでなければ。雙方《さうはう》が折合《をれあ》つて和睦《わぼく》をする事《こと》になる。制服《せいふく》と和睦《わぼく》とにかゝはらずそれらの人《ひと》は、此《こ》の喧嘩《けんくわ》の起《おこ》る度《たび》に、或《あるい》は其《そ》の喧嘩《けんくわ》の仕方《しかた》を覺《おぼ》えるとか、或《あるい》は其《そ》の氣風《きふう》を知《し》るとか、相互《さうご》に多少《たせう》の感化《かんくわ》影響《えいきやう》を受《う》ける。そして相互《さうご》に發達《はつたつ》進歩《しんぽ》を遂《と》げ、多少《たせう》雙方《さうはう》の殊性《しゆせい》が融合《ゆうがふ》して、似《に》よつた或《ある》ものとなる。世界歴史《せかいれきし》の經路《けいろ》も、亦《また》約《およ》そそれに似《に》た所《ところ》がある。さて太古《たいこ》に於《お》いて、此《こ》の世界《せかい》の文明《ぶんめい》の中心《ちうしん》になるものが四つあつた。一つは支那《しな》の文明、一つはインドの文明《ぶんめい》、一つはヨーロッパの文明《ぶんめい》、一つは西南《せいなん》アジヤ及《およ》びエヂプトの文明《ぶんめい》である。これらの文明《ぶんめい》を代表《だいへう》する人民《じんみん》と人民《じんみん》との間《あいだ》に幾囘《いくくわい》となく大衝突《だいしようとつ》があつて、互《たがひ》に影響《えいきやう》を與《あた》へ、感化《かんくわ》を與《あた》へ、とどのつまり相共《あひとも》に融和《ゆうわ》して、結局《けつきよく》世界的《せかいてき》統《とう》一|的《てき》文明《ぶんめい》を作《つく》らんとする傾向《けいかう》をもつて居《ゐ》るのが、即《すなは》ち世界歴史《せかいれきし》の趨勢《すうせい》のやうである。其《そ》の間《あひだ》に國民《こくみん》の盛衰興亡《せいすゐこうばう》はあるが、併《しか》し此《こ》の衝突《しようとつ》に依《よ》つて却《かへ》つて文明《ぶんめい》は進歩《しんぽ》した。  東洋《とうやう》と西洋《せいやう》とは、古《ふるく》から始終《しじう》衝突《しようとつ》して今《いま》に至《いた》つたのであるが、其《そ》の最初《さいしよ》の大衝突《だいしようとつ》といふのは、西《にし》のギリシヤと東《ひがし》のペルシヤとの衝突《しようとつ》であつた。そして此《こ》の大衝突《だいしようとつ》は、ペルシヤが三|囘《くわい》までのギリシヤ遠征《ゑんせい》となつて、其《そ》の結果《けつくわ》テルモピレーの陸戰《りくせん》となり、アルテミシオンの海戰《かいせん》となり、やがてサラミスの大海戰《だいかいせん》となつて、遂《つひ》に段落《だんらく》を告《つ》げた。此《こ》の舞臺《ぶたい》に立《た》つて最《もつと》も著《いちじる》しく活動《くわつどう》した立役者《たてやくしや》は、ペルシヤのクセルクセス王《わう》と、ギリシヤ方《がた》の中心《ちうしん》となつたアテネの英雄《えいゆう》テミストクレスであつた。大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐたペルシヤの大王《だいわう》と、必死《ひつし》の智勇《ちゆう》を傾《かたむ》けてギリシヤの自由《じいう》を全《まつた》うしたテミストクレスとの華々《はな/゛\》しい事蹟《じせき》を述《の》べる前《まへ》に。吾々《われ/\》は先《ま》づ此《こ》のペルシヤとギリシヤの形勢《けいせい》を一通《ひととほ》り了解《れうかい》して置《お》く必要《ひつえう》がある。  世界太古《せかいたいこ》に於《お》いて、文明《ぶんめい》の曙光《しよくわう》の現《あらは》れたのは、アフリカの東北端《とうほくたん》のエヂプトと、アジヤの西南《せいなん》のバビロニヤであつた。此《こ》の二つの國《くに》の間《あひだ》に、多《おほ》くの小《ちひ》さな國《くに》ができたが、其《そ》のうちにバビロニヤの分國《ぶんこく》のアツシリヤが盛《さかん》になつて、バビロニヤ、エヂプト其《そ》の他《た》の小國《せうこく》を悉《こと/゛\》く制服《せいふく》して、茲《こゝ》に一|大《だい》王國《わうこく》を成《な》したが、アツシリヤも亦《また》内部《ないぶ》が治《をさ》まらず、常《つね》に叛亂《はんらん》が絶《た》えないで、紀元前《きげんぜん》六〇六|年《ねん》に亡《ほろ》んだ。それから後《のち》は、西北《せいほく》の小《せう》アジヤにリヂヤ、東北《とうほく》にメヂヤ、南西《なんせい》にエヂプト、中間《ちうかん》にバビロニヤといふ四つの強國《きやうこく》が互《たがひ》に相對立《あひたいりつ》して勢力《せいりよく》を爭つて居《ゐ》た。然《しか》るにメヂヤの東南《とうなん》にあつて元《もと》メヂヤに屬《ぞく》して居《ゐ》たペルシヤが、西暦《せいれき》紀元前《きげんぜん》五五〇|年《ねん》――神武紀元《じんむきげん》一一〇|年《ねん》――即《すなは》ち今《いま》から二千四百八十|年前頃《ねんまへごろ》、次第《しだい》に頭《あたま》を持上《もちあ》げて、その王《わう》キロス先《ま》づメヂヤを亡《ほろ》ぼし、續《つゞ》いて外《ほか》の三|國《ごく》をも亡《ほろ》ぼした。なほ其《そ》の後《のち》ペルシヤの國勢《こくせい》はます/\盛《さかん》になつて、ヨーロツパの方《はう》へ手《て》をのばし、ギリシヤの北《きた》のマケドニヤ王國《わうこく》までも屬國《ぞくこく》として空前《くうぜん》の大國《たいこく》となつた。ペルシヤは獨《ひと》り領土《りやうど》の廣《ひろ》さが空前《くうぜん》であつたばかりでなく、内部《ないぶ》の制度《せいど》が能《よ》く整《とゝの》ひ、政治《せいぢ》が能《よ》く行《おこな》はれて居《ゐ》たので、これまでにない基礎《きそ》の固《かた》い完全《くわんぜん》な統《とう》一|國《こく》となつたのである。それは、ペルシヤ中高《ちうこう》のダリオス一|世《せい》大王《だいわう》の力《ちから》であつたが、また一つはペルシヤ民族《みんぞく》の性質《せいしつ》にも因《よ》つた。ペルシヤ人《じん》は勇敢《ゆうかん》で、誠實《せいじつ》で、潔白《けつぱく》で、寛仁《くわんじん》で、特《とく》に君主《くんしゆ》に對《たい》して忠義《ちうぎ》を盡《つく》すといふ美風《びふう》のある、統《とう》一を愛《あい》する民族《みんぞく》であつた。 此《こ》の時代《じだい》にあつて、ペルシヤが東洋《とうやう》の文明《ぶんめい》を代表《だいへう》するものとすれば、國《くに》は小《ちひ》さかつたけれども、西洋《せいやう》の文明《ぶんめい》の代表者《だいへうしや》となつたものが即《すなは》ちギリシヤであつた。  ギリシヤといふ國《くに》は、ヨーロツパの南東《みなみひがし》にある半島《はんたう》で、其《そ》の國土《こくど》は、山《やま》で幾《いく》つかに區分《くぶん》されたやうになつて居《ゐ》たが、附近《ふきん》には多《おほ》くの島《しま》があり、海岸線《かいがんせん》には多《おほ》くの港灣《かうわん》があり、一|體《たい》に山水明媚《さんすいめいび》で丁度《ちやうど》わが瀬戸内海《せとないかい》を大《おほ》きくしたやうな景色《けしき》の佳《よ》い處《ところ》であつた。そして氣候《きこう》は温暖《おんだん》で、空氣《くうき》は透明《とうめい》で、實《じつ》に愉快《ゆくわい》な生活《せいくわつ》のできる國《くに》であつたから、隨《したが》つて人民《じんみん》も亦《また》快活《くわいくわつ》で、樂天的《らくてんてき》で、身體《しんたい》は壯健《そうけん》で、氣力《きりよく》は旺盛《わうせい》で、其《そ》の一|體《たい》の風采《ふうさい》も山水《さんすい》の如《ごと》く秀麗《しうれい》であつた。ギリシヤ人《じん》は、優美《いうび》なところがあると同時《どうじ》に、また勇敢《ゆうかん》なところがあつて、自信力《じしんりよく》の強《つよ》い、人《ひと》に屈《くつ》する事《こと》を好《この》まない、自分《じぶん》の郷國《くに》を愛《あい》する情念《じやうねん》の頗《すこぶ》る強《つよ》い民族《みんぞく》であつた。時《とき》に依《よ》ると、やゝ度量《どりやう》の狹《せま》い缺點《けつてん》はあるが、併《しか》しギリシヤ人《じん》は、自分《じぶん》の自由《じいう》のためや自分《じぶん》の郷國《くに》のためには、一|身《しん》を抛《なげう》つことを何《なん》とも思《おも》つて居《ゐ》なかつた。  斯《か》ういふ土地柄《とちがら》で斯《か》ういふ優秀《いうしう》な民族《みんぞく》であつた事《こと》は、大《おほ》いに我《わ》が日本《につぽん》と日本民族《につぽんみんぞく》と似《に》た所《ところ》があつたのであるが、惜《を》しいかなギリシヤには、我《わ》が日本《につぽん》の皇室《くわうしつ》のやうな國民《こくみん》の結合心《けつがふしん》を統《とう》一する絶對的《ぜつたいてき》の中心《ちうしん》にをるものがなかつたので、彼《かれ》らは小郷土《せうきやうど》に割據《かつきよ》して、互《たがひ》に相爭《あいあらそ》つて居《ゐ》るばかりで、此《こ》の民族《みんぞく》を統《とう》一して大國《たいこく》となることがてきなかつた。尤《もつと》も若《も》し外國《ぐわいこく》の大軍《たいぐん》が襲來《しうらい》するといふやうな場合《ばあひ》には、かれらは其《そ》の民族《みんぞく》のために一|致團結《ちだんけつ》することもあつたが、焦眉《せうび》の急《きふ》が稍《やゝ》遠《とを》のくと、互《たがひ》に相分《あひわか》れて協同《けふどう》せず、且《か》つ其《そ》の小《ちひ》さく割據《かつきよ》した國々《くに/゛\》に於《お》いても、なほ常《つね》に黨派爭《たうはあらそ》ひが絶《た》えなかつたのである。  此《こ》のギリシヤ諸國《しよこく》のうちに、ペロポンネリス半島《はんたう》なるラコニヤ州《しう》(またラケダイモンといふ)のスパルタと、中部《ちうぶ》ギリシヤたるアツチカ州《しう》のアテネの二つの國《くに》があつた。此《こ》の二つの國《くに》は、ギリシヤ人中《じんちう》の二つの種族《しゆぞく》の代表《だいへう》でもあつた。  即《すなは》ちスパルタは、ドリア人種《じんしゆ》を代表《だいへう》するもので、剛健《がうけん》、猛勇《まうゆう》、質素《しつそ》、廉潔《れんけつ》、保守《ほしゆ》という樣《やう》な特質《とくしつ》があつて、殊《こと》に國家主義《こくかしゆぎ》を信奉《しんぽう》することが極端《きよくたん》に強《つよ》かつた。アテネは、イオニア人種《じんしゆ》の代表《だいへう》で、優雅《いうが》、活潑《くわつぱつ》、進取《しんしゆ》といふ風《ふう》の特質《とくしつ》があつて、別《わ》けて個人《こじん》の自由《じいう》を重《おも》んじ、民主々義《みんしゆ/\ぎ》を奉《ほう》じて居《ゐ》た。  スパルタの國《くに》を經營《けいえい》する中心《ちうしん》になつて居《ゐ》たのは、少數《せうすう》の貴族《きぞく》で、其《そ》の數《すう》は約《およ》そ九千|人《にん》であつた。そして、其《そ》のうちの五千|人《にん》は常《つね》に兵役《へいえき》に就《つ》いて居《ゐ》た。平民《へいみん》は、ラコニヤ州《しう》全體《ぜんたい》にわたつて約《およ》そ四|萬《まん》五千|人《にん》、奴隷《どれい》は更《さら》に多《おほ》かつたが、併《しか》しこれらの者《もの》には、國《くに》の政治《せいぢ》に關係《くわんけい》する權利《けんり》が無《な》かつたのである。スパルタの貴族達《きぞくたち》は、いつまでも自分等《じぶんら》よりも遙《はるか》に多數《たすう》の平民奴隷《へいみんどれい》の上《うへ》に立《た》つて、何時《いつ》までも獨《ひと》り政權《せいけん》を握《にぎ》つて行《ゆ》かうとするには、第《だい》一に非常《ひじやう》に強《つよ》くなければならなかつた。で、彼《かれ》らが長《なが》く其《そ》の強《つよ》いのを失《うしなは》ずに、いつまでも彼《かれ》らの勢力《せいりょく》を保《たも》つて行《ゆく》といふことを目的《もくてき》として、一|種《しゆ》無類《むるゐ》の憲法《けんぱふ》があつて、非常《ひじやう》な國家的社會主義《こくかてきしやくわいしゆぎ》が行《おこな》はれて居《ゐ》た。  即《しなは》ちその憲法《けんぱふ》により、生《うま》れた子《こ》が弱《よわ》くつて、とても國家《こくか》の役《やく》に立《た》つ人間《にんげん》になれさうもないと見《み》ると、谷《たに》へ捨《す》てゝ野獸《やじう》の餌食《ゑじき》にしてしまふといふ傳説《でんせつ》さへあつた。まさか、それ程《ほど》に殘酷《ざんこく》ではない。弱《よわ》い子《こ》が生《うま》れると貴族《きぞく》にはしないで、谷《たに》のあたりに住《す》んで居《ゐ》る平民《へいみん》に遣《や》つてしまふ事《こと》を言《い》つたのであるが、斯《か》ういふ風《ふう》にして貴族《きぞく》は強《つよ》さうな子《こ》ばかりを育《そだ》て、七|歳《さい》になると、其《そ》の兒童《こども》たちを親《おや》の手《て》から離《はな》して國家《こくか》がこれを育《そだ》てる事になつて居《ゐ》た。彼《かれ》らをイレンといふ組々《くみ/゛\》に分《わ》け、それに教師《けうし》が就《つ》いて教《をし》へるであつた。其《そ》の教育訓練《けういくくんれん》は非常《ひじやう》に嚴重《げんぢう》で、多少《たせう》は文學《ぶんがく》をも教《をし》へたが、精神教育《せいしんけういく》と體育《たいいく》が主《おも》で、百|般《ぱん》の武藝《ぶげい》を教《をし》へることゝ、身體《しんたい》を鍛錬《たんれん》することに非常《ひじやう》に骨《ほね》を折《を》つた。寒《さむ》い時《とき》でも暑《あつ》い時《とき》でも能《よ》くこれに耐《た》へ、長《なが》い間《あひだ》飲《の》まず食《く》はずに居《ゐ》ても辛抱《しんばう》ができるやうに慣《な》らし、國《くに》のためには死《し》を見《み》て歸《き》するが如《ごと》くなる精神《せいしん》を養《やしな》はしめた。此《こ》の兒童《こども》の教育《けういく》に就《つ》いて、時々《とき/゛\》奇異《きい》な試驗《しけん》が行《おこな》はれた。それは兒童《こども》を神殿《しんでん》へ連《つ》れて行《い》つて、肌《はだ》を現《あらは》させて背《せ》を鞭《むち》うち、泣《な》き出《だ》さずに默《だま》つて受《う》けた鞭數《むちかず》をもつて、試驗《しけん》の成績《せいせき》を判《はん》ずる標準《めやす》にしたのである。其《そ》の中《なか》には飽《あ》くまで堅忍《がまん》して、氣絶《きぜつ》するまで聲《こゑ》を出《だ》さないものもあつたと傳《つた》へられて居《ゐ》る。これを見《み》ても、スパルタの貴族《きぞく》が強《つよ》い人間《にんげん》を育《そだ》てることに、どれだけ心《こゝろ》を苦《くる》しめたかといふことが察《さつ》せられるであらう。  また兒童《こども》が此《こ》の組《くみ》へ入《はい》ると、其處《そこ》に兄弟分《きやうだぶん》といふやうな關係《くわんけい》ができた。兄分《あにぶん》になつた者《もの》は、弟分《おとうとぶん》の教育《けういく》に就《つ》いて萬事《ばんじ》の世話《せわ》をするのである。弟分《おとうとぶん》に若《も》し卑怯《ひけふ》な擧動《ふるまひ》でもあつたとなると、其《そ》の責《せめ》は兄分《あにぶん》が引受《ひきう》けなければならなかつた。彼《かれ》らの寢《ね》る處《ところ》は協同《きようどう》の寄宿舍《きしゆくしや》であつたが、其《そ》の寢床《ねどこ》は、みづから川《かは》の岸《きし》へ行《い》つて取《と》つて來《き》た葦《あし》を干《ほ》して造《つく》つたものであつた。彼《かれ》らには、食物《しよくもつ》も充分《じうぶん》に與《あた》へられず、食物《しよくもつ》を盜《ぬす》ませるのであつた。これは、敵陣《てきぢん》などへ間諜《かんてふ》に行《ゆ》く時《とき》の訓練《くんれん》のために許《ゆる》したものであるから、決《けつ》してたゞ盜《ぬす》むに任《まか》しはせぬ。若《も》し見《み》つけられたら酷《ひど》い目《め》に會《あ》はされた。また食事《しよくじ》の時《とき》には、國民《こくみん》一|般《ぱん》の共同食卓《きようどうしよくたく》といふものがあつて、みな其處《そこ》へ集《あつま》るのであつた。食《た》べるものは、豚《ぶた》の肉《にく》を豚《ぶた》の血《ち》で煮《に》たソップのやうなもので、王《わう》から以下《いか》何《いづ》れも同《どう》一|無差別《むさべつ》の粗食《そしよく》をして居《ゐ》たのである。兒童《こども》は大人《おとな》と共《とも》に此《こ》の食卓《しよくたく》に就《つ》くことはできない。たゞ其《そ》の傍《そば》に居《ゐ》て、人人《ひと/゛\》の勇敢《ゆうかん》な戰《いくさ》の話《はなし》や狩《かり》の話《はなし》を聽《き》いて精神《せいしん》の修養《しうやう》にしたのであつた。  二十歳《はたち》になると、はじめて共同食卓組《きようどうしよくたくぐみ》に入《はい》る。その時《とき》は組員《くみゐん》の無名投票《むめいとうへう》で承諾《しようだく》を得《え》て入《はい》るので、平生《へいぜい》卑怯《ひけふ》な擧動《ふるまひ》でもあると、之《これ》で拒絶《きよぜつ》されることがある。すると食卓組《しよくたくぐみ》へ入《はい》ることはできない。食卓組《しよくたくぐみ》といふおのは、軍隊《ぐんたい》の單位《たんゐ》で、戰《たたかひ》に臨《のぞ》んでは、互《たがひ》に生死《せいし》を共《とも》にする性質《せいしつ》のものである。で、食卓組《しよくたくぐみ》へはいることになれば、兵役《へいえき》に立《た》ちもし亦《また》民會《みんくわい》へ出席《しゆつせき》する事《こと》もできた。三十|歳《さい》にして、官吏《くわんり》になり士官《しくわん》になることができた。彼《かれ》らは粗食《そしよく》で、粗衣《そい》で、常《つね》に武器《ぶき》を携《たずさ》へて居《ゐ》なければならなかつた。そして、政府《せいふ》の命令《めいれい》無《な》くして市《し》の外《そと》へ出《で》れば、脱走《だつそう》したものと同樣《どうやう》に死刑《しけい》に處《しよ》せられた。また彼《かれ》らの家《いへ》を建築《けんちく》するにしても、第《だい》一|勝手《かつて》に立派《りつぱ》な家《いへ》を造《つく》ることは許《ゆる》されない。また家《いへ》の中《なか》に具《そな》へるものでも自由《じいう》にはならなかつた。若《も》し金《きん》や銀《ぎん》の器《うつは》を持《も》つてい《を》れば、どし/\罰《ばつ》せられた。政府《せいふ》は建築《けんちく》にも室内《しつない》にもすべて裝飾《そうしよく》を嫌《きら》つた。結婚《けつこん》も政府《せいふ》の許可《きよか》が無《な》くつてはできず、そして政府《せいふ》は成《な》るべく勇《いさ》ましい男《をとこ》に賢《かしこ》い女《をんな》を配偶《めあは》させて良《よ》い子《こ》の生《うま》れるやうに力《つと》めて居《ゐ》た。結婚《けつこん》して久《ひさ》しく子が生《うま》れなければ、國家《こくか》の役《やく》に立《た》たないと言《い》つて、政府《せいふ》はこれに離婚《りこん》を命《めい》じ、又《また》年《とし》を老《と》るまで妻《つま》を娶《めと》らずに獨身《どくしん》で居《を》れば、不都合《ふつがふ》だと言《い》つて政府《せいふ》は之《これ》を罰《ばつ》した。スパルタでは又《また》金錢《きんせん》を卑《いや》しむ風《ふう》を養《やしな》ふために、通用《つうよう》する貨幣《くわへい》は鐵《てつ》の重《おも》いもので、多《おほ》く貯《たくは》へたいといふやうな考《かんが》へを起《おこ》さないやうに拵《こしら》へてあつた。  併《しか》し流石《さすが》のスパルタ人《じん》も、斯《か》ういふ生活《せいくわつ》では一|向《かう》興味《きようみ》が無《な》いので、慰《なぐさ》みの爲《ため》に時々《とき/゛\》大《おほ》きな狩《かり》の會《くわい》をする事《こと》もあり、また一|緒《しよ》の集《あつま》つて歌《うた》を謳《うた》ふこともあり、秀句《しうく》の言《い》ひ合《あ》ひをすることもあつた。彼《かれ》らは寡言《くわごん》を貴《たふと》び、電信《でんしん》の文句《もんく》のやうに、なるたけ簡單《かんたん》な言語《げんご》で、それで言《い》はんと欲《ほつ》する意味《いみ》を充分《じうぶん》に現《あらは》して居《ゐ》る秀句《しうく》をこのんだ。其《そ》の一|例《れい》を言《い》ふと、或者《あるもの》が戰《たゝかひ》に臨《のぞ》んで、『劍《けん》が短《みじか》い』と言《い》つたのに對《たい》して、秀句《しうく》に長《ちやう》じたものは直《ただち》にこれに應《おう》じて、『自《みづか》ら長《なが》くせよ』といふ事《こと》を以《も》つてした。此《こ》の短《みじか》い句《く》に依《よ》つて、劍《けん》の短《みじか》いのを歎《たん》ずるな、勇奮《ゆうふん》して一|足《あし》前《まへ》に履《ふ》み出《いだ》せ。然《しか》らば汝《なんぢ》の劍《けん》は自《おのづか》ら長《なが》くなる、といふ意味《いみ》は充分《じうぶん》に現《あらは》れて居《ゐ》る。又《また》母《はゝ》が子《こ》に楯《たて》を與《あた》へて、『汝《なんぢ》は此《こ》の楯《たて》を持《も》つて歸《かへ》るか、或《あるひ》は此《こ》の楯《たて》に載《の》せられて歸《かへ》れ』と言《い》つて、楯《たて》を持《も》つて歸《かへ》るとは勇戰《ゆうせん》して凱旋《がいせん》することで、楯《たて》に載《の》せられて歸《かへ》るとは、名譽《めいよ》の戰死《せんし》を遂《と》げることである。此《こ》の句《く》のうちに、子《こ》を勇《いさ》まし戒《いまし》める意味《いみ》が充分《じうぶん》に籠《こも》つて居《ゐ》た。  スパルタは斯《か》ういふ風《ふう》で、其《そ》の軍隊《ぐんたい》の強《つよ》い事《こと》は天下無比《てんかむひ》であつた。が、其《そ》の代《かは》り日々《ひび》の生活《せいくわつ》が單調無趣味《たんてうむしゆみ》で樂《たの》しみが少《すくな》く、文明《ぶんめい》の進歩《しんぽ》には更《さら》に心《こゝろ》を向《む》けず、唯《たゞ》これまであつたものを其《そ》のの儘《まゝ》に墨守《ぼくしゆ》するばかりであつた。故《ゆゑ》にスパルタには、文學美術《ぶんがくびじゆつ》は興《をこ》らなかつた。  アテネは其《そ》の氣風《きふう》が萬事《ばんじ》スパルタと反對《はんたい》して居《ゐ》た。勿論《もちろん》アテネとても國家《こくか》は國家《こくか》として重《おも》んじたが、スパルタのやうに總《すべ》ての國民《こくみん》を國家《こくか》といふものゝの奴隷《どれい》にするやうなことはせず、また個人個人《こじんこじん》の自由《じいう》をも重《おも》んじた。で、此《こ》の國《くに》では貴族《きぞく》と平民《へいみん》との爭《あらそひ》が熾《さかん》で、爭《あらそひ》が熾《さかん》になるにつれて平民《へいみん》の勢力《せいりよく》が段々《だん/\》加《くは》はり、やがて貴族《きぞく》と平民《へいみん》との間《あひだ》にあつた區別《くべつ》が取《と》り除《のぞ》かれてしまつた。斯《か》ういふ風《ふう》に進《すゝ》んで行《い》つた結果《けつくわ》、後《のち》になつて深《ふか》い考《かんがへ》の無《な》い平民《へいみん》の多數《たすう》が權力《けんりよく》を握《にぎ》るやうになつて、終《つひ》には之《これ》に乘《じよう》ずる野心家《やしんか》が出《で》て來《き》て、辯舌《べんぜつ》により濫《みだり》に彼等《かれら》を動《うご》かし、政治《せいぢ》や軍略《ぐんりやく》を誤《あやま》つたことも度々《たび/\》あつた。が、これは後々《のち/\》の事《こと》で、まだペルシヤと衝突《しようとつ》した時分《じぶん》のアテネは、隱健《をんけん》な精神《せいしん》が滿《み》ちて居《ゐ》て、又《また》頭《かしら》に立《た》つて國《くに》の政治《せいぢ》を執《と》る者《もの》も、遠謀深慮《ゑんぼうしんりよ》のある人格《じんかく》の高《たか》い人《ひと》だつたので、大《たい》した弊害《へいがい》も起《おこ》らずにどん/\と發達《はつたつ》した。  スパルタ人《じん》が金錢《きんせん》を卑《いや》しむのに反《はん》し、アテネでは金錢《きんせん》を重《おも》んじた。アテネは王《わう》といふものを立《た》てず、國政《こくせい》は共和政治《きようわせいぢ》であつたが、其《そ》の憲法《けんぱふ》に依《よ》つて定《さだ》められた人民《じんみん》の權利義務《けんりぎむ》は財産《ざいさん》が基礎《きそ》になつて居《ゐ》た。財産《ざいさん》のある者《もの》は義務《ぎむ》も多《おほ》ければ又《また》權利《けんり》も多《おほ》かつた。財産《ざいさん》の無《な》いものは義務《ぎむ》も少《すくな》ければ權利《けんり》も亦《また》少《すくな》かつた。國民《こくみん》は競《きそ》つて財産《ざいさん》を殖《ふや》すことを計《はか》つた。アナクサゴラスのやうな大哲學者《だいてつがくしや》でも、ヒポクラテスのやうな名醫《めいい》でも、傍《かたは》ら貿易《ぼうえき》に從事《じうじ》して金《かね》まうけをして居《ゐ》たのである。スパルタでは寡言《くわごん》を好《この》む氣風《きふう》があつたが、アテネでは辯舌《べんぜつ》を愛《あい》した。政治家《せいぢか》の資格《しかく》として辯舌《べんぜつ》が大切《たいせつ》だつたので、人々《ひと/゛\》は皆《みな》辯舌《べんぜつ》を磨《みが》いた。後《のち》に古今獨歩《ここんどつぽ》の雄辯家《ゆうべんか》デモステネスが生《うま》れ出《で》たのも、斯《か》ういふ氣風《きふう》があればこそであつた。又《また》スパルタ人《じん》は、他《ほか》の國《くに》の者《もの》と交際《かうさい》して柔弱《じうじやく》な風《ふう》に感染《かんせん》するのを恐《おそ》れ、なるべく市外《しぐわい》へ人《ひと》を出《だ》さない樣《やう》にして居《ゐ》たが、アテネは力《つと》めて外國《ぐわいこく》に行《ゆ》く風《ふう》があつて、隨《したが》つて貿易《ぼうえき》は最《もつと》も盛《さかん》であつた。されば、人々《ひと/゛\》の考《かんがへ》でも、一|方《ぱう》は何時《いつ》まで經《た》つても狹《せま》いが、一|方《ぱう》は段々《だん/\》廣《ひろ》くなつて行《ゆ》く相違《さうゐ》があつた。且《か》つスパルタ人《じん》は陸軍《りくぐん》が強《つよ》くて、野戰《やせん》には敵《てき》ずるものが無《な》いのに對《たい》して、アテネの方《はう》は海軍《かいぐん》が優勢《いうせい》で、其《そ》の海戰々術《かいせん/\じゆつ》は他《た》に超絶《てうぜつ》して居《ゐ》たのである。  さて此《こ》の二|國《こく》が中心《ちうしん》になつて居《ゐ》たギリシヤと、彼《か》の東方《とうはう》の諸國《しよこく》を統《とう》一したペルシヤと、どうして大衝突《だいしようとつ》の濤《なみ》をあげるに至《いた》つたか、これからそろ/\本題《ほんだい》に入《はい》るのである。 ##兩國間《りやうごくかん》の風雲《ふううん》 [#2字下げ]兩國衝突の核……小アジヤのギリシヤ植民諸市……ホメロスの大詩篇イリアツド……ギリシヤの反感ペルシヤに移る……ギリシヤ植民市ペルシヤに反す……アテネの應援……ペルシヤの第一回ギリシヤ遠征  ギリシヤとペルシヤは終《つひ》には相衝突《あひしようとつ》する運命《うんめい》を持《も》つて居《ゐ》た。ペルシヤが其《そ》の頭《あたま》を持《も》ちあげ出《だ》した建國《けんこく》の當初《たうしよ》から、早《はや》くも既《すで》にギリシヤは其《そ》の敵役《あひてやく》に廻《まは》つて居《ゐ》たのである。まだメヂヤとリヂヤと、バビロニヤとエヂプトの四|國《こく》が對立《たいりつ》して居《ゐ》る當時《たうじ》、ペルシヤがめき/\と勢力《せいりよく》をのばして、四|強國《きやうこく》の一つメヂヤを亡《ほろ》ぼすや、他《た》の三|強國《きやうこく》はペルシヤの侵略《しんりやく》を恐《おそ》れて、ペルシヤに敵對《てきたい》する同盟《どうめい》を結《むす》ばうとした。其《そ》の時《とき》、リヂヤからギリシヤに使《つかひ》をさし立《た》てゝ、ペルシヤが此《こ》の上《うへ》暴《あば》れ出《だ》しては、貴國《きこく》も安心《あんしん》ができまいから、ペルシヤが餘《あま》ち大《おほ》きくならないうちに壓《おさ》へつけけようと計《はか》つて居《ゐ》る吾々《われ/\》の同盟《どうめい》に加《くは》はらないか、と言《い》ひ送《おく》つたので、ギリシヤ列國中《れつこくちう》には早速《さつそく》賛成《さんせい》するものも少《すくな》くなかつた。殊《こと》にスパルタ王《わう》のクレオメネスは、北方《ほくはう》の蠻民《ばんみん》スキテー人《じん》と計《はかりごと》を合《あ》はせて、ペルシヤを狹《はさ》み撃《う》つ計畫《けいくわく》を立《た》てたが、これは遂《つひ》に事實《じじつ》とはならなかつた。  此處《ここ》で一寸《ちよつと》説《と》いて置《お》きたいのは、前述《ぜんじゆつ》の同盟《どうめい》を言《い》ひ送《おく》つたリヂヤとギリシヤの關係《くわんけい》である。此《こ》の關係《くわんけい》を明《あき》らかにしようとするには、先《ま》づギリシヤの植民市《しよくみんし》の事《こと》から説《と》き起《おこ》ささなければならないのである。ギリシヤ人《じん》はずつと早《はや》い前《まへ》から小《せう》アジヤの海岸《かいがん》に多數《たすう》の植民市《しよくみんし》を開《ひら》いて居《ゐ》た。そして、外《そと》から内《うち》へ擴《ひろ》がらうとする植民市《しよくみんし》のギリシヤ人《じん》と、内《うち》から外《そと》へ擴《ひろ》がらうとする小《せう》アジヤ地方《ちはう》の民族《みんぞく》とは、始終《しじう》衝突《しようとつ》をし續《つゞ》けて居《ゐ》た。世界最初《せかいさいしよ》の大詩人《だいしじん》と言《い》はれるホメロスの詩《し》に、イリアツドと、オデッセーといふ二|大篇《だいへん》がある。これは千|古《こ》の傑作《けつさく》で、共《とも》にギリシヤ人《じん》と海外《かいぐわい》の他民族《たみんぞく》との衝突《しようとつ》から起《おこ》つた事柄《ことがら》を材《ざい》として作《つく》られたものであつた。イリアツドの大要《たいえう》を話《はな》して見《み》ると、小《せう》アジヤの海岸《かいがん》にトロヤという市《し》があつて、其《そ》の市《し》の王子《わうじ》のパリスは、或時《あるとき》ギリシヤに遊歴《いうれき》し、スパルタ王《わう》メネラウスの朝廷《てうてい》で色々《いろ/\》と優待《いうたい》されたにもかゝはらず、窃《ひそか》に王妃《うひ》のヘレナといふ絶世《ぜつせい》の美人《びじん》を盜《ぬす》んで、其《そ》のまゝトロヤへ歸《かへ》つてしまつた。ギリシヤの諸國《しよこく》では非常《ひじやう》に之《これ》を憤《いきどほ》つて、メネラウスの弟《おとうと》のミケーネ王《わう》アガメムノンを總大將《そうたいしやう》として、列國《れつこく》の同盟軍《どうめいぐん》が海《うみ》を渡《わた》つてトロヤを攻《せ》めた。トロヤ方《がた》にはアツキレウスといふ勇猛《ゆうまう》な大將が居《ゐ》て、城《しろ》を圍《かこ》んで十|年《ねん》の間《あひだ》戰《たゝかひ》が續《つゞ》く。十|年目《ねんめ》にユリーセスといふものゝ謀計《ぼうけい》を用《もち》ひ、多《おほ》くの勇士《ゆうし》が大《おほ》きな木馬《もくば》の腹《はら》の中《なか》にかくれて、計略《けいりやく》で首尾《しゆび》よくトロヤの城内《じやうない》へ運《はこ》ばれ、夜半《やはん》木馬《もくば》から出《で》て内外《ないぐわい》から敵《てき》を撃《う》つて、遂《つひ》に之《これ》を滅《ほろ》ぼしたといふ物語《ものがたり》なのである。またオデッセーでは、ギリシヤの大將《たいしやう》のオデツセウスが、戰地《せんち》から本國《ほんごく》へ歸《かへ》る途中《とちう》で、色々《いろ/\》な冒險《ぼうけん》をしたり、困苦《こんく》を嘗《な》めた事《こと》が歌《うた》つてあつた。これらの詩《し》にある事《こと》は詩人《しじん》のつくり物語《ものがたり》としても、此《こ》の二|篇《へん》の詩《し》は、兎《と》に角《かく》當時《たうじ》ギリシヤ人《じん》の間《あひだ》に話《はな》されて居《ゐ》た幾《いく》つかの戰物語《いくさものがたり》を代表《だいへう》したものと認《みと》めることができる。ギリシヤ人《じん》は、既《すで》に其《そ》の民族《みんぞく》發展《はつてん》の當初《たうしよ》から、小《せう》アジヤ地方《ちはう》の民族《みんぞく》と衝突《しようとつ》して居《ゐ》たのである。  さて、ギリシヤ人《じん》が小《せう》アジヤに作《つく》つた植民諸市《しよくみんしよし》が段々《だん/\》盛《さかん》になるにつれて、爭《あらそひ》も段々《だん/\》と激《はげ》しくなつたが、リヂヤ王《わう》のメルムナド家《け》の高祖《かうそ》ギゲスといふのが現《あらは》れて、一|方《ぱう》の植民市《しよくみんし》とは爭《あらそ》つて居《ゐ》ながらも、他《た》の一|方《ぱう》の或者《あるもの》とは同盟《どうめい》して、なるべくギリシヤ人《じん》と親密《しんみつ》になる方策《はうさく》を採《と》つた。エヂプトの王《わう》にギリシヤ人《じん》を用《もち》ひる事《こと》を勸《すゝ》めて、アツシリヤに叛《そむ》かせたのも此《こ》の王《わう》の策略《さくりやく》であつた。ギゲス王《わう》は、又《また》ギリシヤ本土《ほんど》の人《ひと》に善《よ》く思《おも》はれる爲《ため》に、ギリシヤ人《じん》の崇拜して居《ゐ》る其《そ》の本國《ほんごく》のデルフオイの神殿《しんでん》へ常《つね》に奉納物《ほうなふもつ》を送《おく》りなどして、長《なが》い間《あひだ》ギリシヤ諸國《しよこく》と親善《しんぜん》の關係《くわんけい》を保《たも》つて居《ゐ》た。メルムナド家《け》の五|代目《だいめ》の王《わう》クロイソスの時《とき》になつて、リヂヤは海岸《かいがん》にあるギリシヤの諸植民市《しよしよくみんし》を從《したが》へ、これを屬領《ぞくりやう》のやうにすると共《とも》に、ギリシヤ本土《ほんど》の諸國《しよこく》に對《たい》しては、力《つと》めて親密《しんみつ》な風《ふう》を示《しめ》して居《ゐ》た。さればこそ、ペルシヤに對《たい》する三|國同盟《ごくどうめい》ができた時《とき》に、クロイソスは、早速《さつそく》其《そ》の同盟《どうめい》加入《かにふ》の事《こと》を言《い》ひ送《おく》るに至《いた》つたのである。  併《しか》しギリシヤを誘《いざな》つた此《こ》の大同盟《だいどうめい》も、ペルシヤの高祖《かうそ》キロス王《わう》の大略《たいりやく》に敵《てき》することができず、リヂヤもバビロニヤも忽《たちま》ち其《そ》の征服《せいふく》する所《ところ》となり、エヂプトもキロスの子《こ》カンピセス王《わう》に滅《ほろ》ぼされてしまつた。同時《どうじ》に小《せう》アジヤの海岸《かいがん》にあつたギリシヤの諸植民市《しよしよくみんし》もペルシヤの侵略《しんりやく》を受《う》けて、勢《いきほ》ひこれに屈伏《くつぷく》しなければならなかつた。が、それで年來《ねんらい》ギリシヤの植民市《しよくみんし》とリヂヤとの間《あひだ》にあつた反感《はんかん》は、今《いま》や轉《てん》じてペルシヤに向《むか》つた。言《い》ひかへればリヂヤとギリシヤ植民市《しよくみんし》との爭《あらそひ》が、今《いま》やペルシヤとギリシヤの爭《あらそひ》になつたのである。  なほギリシヤよりも先《さき》に航海貿易《かうかいぼうえき》の發達《はつたつ》して居《ゐ》た尻や海岸《かいがん》のフエニキヤ人《じん》は、ギリシヤ人《じん》が段々《だん/\》盛《さかん》に貿易《ぼうえき》を行《おこな》ふやうになつて、其《そ》の利害《りがい》の關係《くわんけい》から、次第《しだい》に烈《はげ》しい衝突《しようとつ》を起《おこ》すやうになつた。もと此《こ》のフエニキヤ人《じん》は、性質《せいしつ》が有爲活潑《いうゐくわつぱつ》で、開明諸國《かいめいしよこく》の中間《ちうかん》に土地《とち》を持《も》つて居《ゐ》たが、其《そ》の土地《とち》が不毛《ふまう》で農業《のうげふ》に適《てき》しなかつたので、彼《かれ》らは專《もつぱ》ら漁業《ぎよげふ》の方《はう》に向《むか》つた。これが自然《しぜん》に發達《はつたつ》して、漁業《ぎよげふ》から航海《かうかい》になり、航海《かうかい》から貿易《ぼうえき》になつて、當時《たうじ》知《し》れて居《ゐ》た世界《せかい》の到《いた》る處《ところ》へ渡航《とかう》しては盛《さかん》に商業《しやうげふ》を營《いとな》み、また方々《はう/゛\》へ植民地《しよくみんち》を作《つく》つた。ギリシヤが此《こ》のフエニキヤから受《う》けた文明《ぶんめい》の影響《えいきやう》は頗《すこぶ》る大《おほ》きかつた。ギリシヤ文字《もじ》外《ほか》現《げん》に今《いま》ヨーロツパ一|般《ぱん》に行《おこな》はれて居《ゐ》る|ABC《エービーシー》の元《もと》は、フエニキヤ文字《もじ》から來《き》たものであつた。航海《かうかい》の如《ごと》きも、フエニキヤ人《じん》から教《をし》へられたものだつたが、段々《だん/\》覺《おぼ》えこむと共《とも》に競爭《きやうさう》するやうな状況《じやうきやう》になつて、競爭《きやうさう》に進《すす》んで衝突《しようとつ》となつたのである。ペルシヤがフエニキヤを征服《せいふく》した時分《じぶん》には、いよ/\其《そ》の勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひが甚《はなは》だしくなつて居《ゐ》たので、これまで單《たん》にフエニキヤとギリシヤとの衝突《しようとつ》にとゞまつた事《こと》が、今度《こんど》は延《ひ》いて、ペルシヤとギリシヤとが相爭《あひあらそ》ふ衝突《しようとつ》になつて來《き》た。  斯《か》ういう風《ふう》で、ギリシヤとペルシヤと相爭《あひあらそ》ふ衝突《しようとつ》の波《なみ》は次第《しだい》に大《おほ》きく荒《あら》くなつて、兩國《りやうこく》の間《あひだ》の風雲《ふううん》は、日《ひ》に/\暗《くら》さを増《ま》すばかりであつた。  處《ところ》が紀元前《きげんぜん》五〇〇年《ねん》になつて、ギリシヤ植民市《しよくみんし》の一つであるミレトスのアリスタゴラスといふものが、小《せう》アジヤに於《お》けるギリシヤ植民市《しよくみんし》の同盟《どうめい》を作《つく》つて、ペルシヤに叛旗《はんき》を飜《ひるがへ》した。そしてアリスタゴラスはギリシヤの本土諸國《ほんどしよこく》に援助《ゑんじよ》を求《もと》めた。スパルタは應《おう》じなかつたが、アテネまでは二十|隻《せき》、エレトリヤからは五|隻《せき》の軍艦《ぐんかん》を送《おく》つて之《これ》を援《たす》けた。同盟軍《どうめいぐん》は不意《ふい》にリヂヤの舊都《きうと》サルデスに押《お》し寄《よ》せて之《これ》を陷《おとしい》れた。  時《とき》にペルシヤは、ダリオス王《わう》の設《まう》けた軍制《ぐんせい》がよく整備《せいび》して居《ゐ》たので、大軍《たいぐん》が時《とき》を費《つひや》さずに集中《しふちう》され、大《おほ》いに此《こ》の同盟軍《どうめいぐん》を撃破《うちやぶ》つて終《しま》つた。また海《うみ》の方《はう》でもフエニキヤの艦隊《かんたい》は、忽《たちま》ち同盟軍《どうめいぐん》の艦隊《かんたい》をミレトスに近《ちか》いラーデ島《たう》の沖《おき》で襲《おそ》つて、撃《う》ち破《やぶ》つてしまつた。これといふのも元來《ぐわんらい》ギリシヤ人《じん》に團結《だんけつ》の精神《せいしん》が乏《とぼ》しくて、同盟諸市《どうめいしよし》の一|致《ち》が破《やぶ》れ、アテネとエレトリヤの艦隊《かんたい》は、ラーデ沖海戰《おきかいせん》の前《まへ》に其《そ》のまゝ本國《ほんごく》へ歸《かへ》つてしまつたから、同盟軍《どうめいぐん》の敗滅《はいめつ》と共《とも》に後《あと》には何《なに》も殘《のこ》らず、事無《ことな》く叛亂《はんらん》は平定《へいてい》してしまつたのである。が、ペルシヤ王《わう》ダリオスは、此《こ》の叛徒《はんと》を討《う》ち平《たひら》げたゞけでは安《やす》んじなかつた。自分《じぶん》の領土《りやうど》に起《おこ》つたギリシヤ植民市《しよくみんし》の叛亂《はんらん》に就《つ》いて、ギリシヤの本土諸國《ほんどしよこく》が其《そ》の叛亂《はんらん》を助《たす》ける艦隊《かんたい》を出《だ》して、公然《こうぜん》これを援《たす》けたのであるから、之《これ》を此《こ》のまゝにして置《お》いてはペルシヤの國威《こくゐ》にかゝはる。それでなくとも、豫《かね》てより攻略《こうりやく》の志《こゝろざし》を持《も》つて居《ゐ》たギリシヤのことであるから、此《こ》の機會《きくわい》を利用《りよう》して、其《そ》の本土《ほんど》へ兵《へい》をさし向《む》け、一|擧《きよ》にして之《これ》を撃《う》ち滅《ほろ》ぼさうと決心《けつしん》した。  ペルシヤは、紀元前《きげんぜん》四九二|年《ねん》に、いよ/\ギリシヤを懲罰《ちようばつ》すると言《い》つて、第《だい》一|囘《くわい》の遠征軍《ゑんせいぐん》を出《だ》した。遠征軍《ゑんせいぐん》は海陸軍《かいりくぐん》とも、小《せう》アジヤを出《で》て海岸《かいがん》に沿《そ》つて並《なら》び進《すゝ》み、ヨーロツパに入《はい》つた。然《しか》るに其《そ》の艦隊《かんたい》が暴風《ぼうふう》のためにアトスの半島近傍《はんたうきんばう》で全滅《ぜんめつ》してしまつたので、止《や》むなく遠征軍《ゑんせいぐん》は其《そ》のまゝ小《せう》アジヤへ引《ひ》きかへした。  此《こ》の報《はう》を得《え》たダリオスはいとゞ憤激《ふんげき》して、益々《ます/\》ギリシヤ遠征《ゑんせい》の熱度《ねつど》を高《たか》めた。 ##國難《こくなん》に備《そな》ふる英雄《えいゆう》の先見《せんけん》 [#2字下げ]英雄テミストクレスの出身……海軍發展の鼓吹……テミストクレス、アルコン・エポニモスに擧げらる……ペルシヤ對抗の思想を注入す……築港と製艦……ペルシヤ、ギリシヤを威嚇す  其《そ》の頃《ころ》アテネにテミストクレスといふ人《ひと》があつた。此《こ》のテミストクレスの父《ちゝ》は、ネオクレスと言《い》つてアテネの古《ふる》い家柄《いへがら》に生《うま》れた人《ひと》であつたが、母《はゝ》は外國《ぐわいこく》の人《ひと》であつた。アテネでは、斯《か》ういふ人々《ひと/゛\》の間《あひだ》に生《うま》れたものを正《たゞ》しい市民《しみん》とは認《みと》めなかつたので、市《し》の中《なか》にある大體操學校《だいたいさうがくかう》へも入《はい》る事《こと》ができず、自然《しぜん》他《ほか》のものからも輕侮《けいぶ》された。テミストクレスは大《おほ》いにこれを殘念《ざんねん》に思《おも》つて、どうかして立派《りつぱ》な人物《じんぶつ》になつて、父母《ふぼ》の如何《いかん》にかゝはらず、世人《せじん》から尊敬《そんけい》されるやうにならなければならないといふ精神《せいしん》が強《つよ》かつた。少年時代《せうねんじだい》にあつても、彼《かれ》は自分《じぶん》の行《い》つて居《ゐ》た市外《しぐわい》の體操學校《たいさうがくかう》の近所《きんじよ》で、附近《ふきん》の少年《せうねん》をあつめて相撲《すまふ》を始《はじ》め、それに事《こと》をよせて市内《しない》の正市民《せいしみん》の少年《せうねん》を誘《さそ》ひ、一|緒《しよ》に相撲《すまふ》を取《と》つたり遊《あそ》んだりして、幾分《いくぶん》か自分《じぶん》が正市民《せいしみん》の子《こ》と區別《くべつ》されるのを紛《まぎら》した。  彼《かれ》は、詩《し》や音樂《おんがく》は好《この》まなかつた。專《もつぱ》ら國家《こくか》を經營《けいえい》することに直接《ちよくせつ》役《やく》に立《た》つ歴史《れきし》とか、辯論《べんろん》とか國法《こくはふ》とかいふ方《はう》を好《この》んだ。そして此《こ》の方《はう》には勝《すぐ》れた才能《さいのう》をもつて居《ゐ》た。彼《かれ》は、何方《どつち》かと言《い》へば早熟《さうじゆく》の方《はう》で、少年《せうねん》としても頗《すこぶ》る大人《おとな》びた少年《せうねん》であつた。遊《あそ》んで居《ゐ》る時《とき》でも、いつも彼《かれ》は世話役《せわやく》の方《はう》にまはつて、何《なに》か爭論《さうろん》でも起《おこ》ると、彼《かれ》は雙方《さうはう》を宥《なだ》めたり仲裁《ちうさい》したりして爭論《さうろん》の始末《しまつ》をつけた。年《とし》をとるに隨《したが》つて、彼《かれ》の長所《ちやうしよ》はます/\發揮《はつき》され、其《そ》の頭腦《づなう》の明晰《めいせき》なのと、其《そ》の策略《さくりやく》に富《と》んで居《ゐ》るのと、其《そ》の行動《かうどう》の活潑機敏《くわつぱつきびん》なのとで、多《おほ》くの儕輩《せいはい》から一|頭地《たうち》をぬきんでて居《ゐ》た。されば正市民《せいしみん》として資格《しかく》が缺《か》けて居《ゐ》るにもかゝはらず、識《し》らず/\人々《ひと/゛\》から重《おも》んぜられ尊敬《そんけい》せられるやうになつた。  テミストクレスは。アテネの將來《しやうらい》は海《うみ》にあるといふ事《こと》を夙《はや》く觀破《くわんぱ》し、又《また》ギリシヤがペルシヤと對抗《たいかう》することに就《つ》いてアテネは其《そ》の中心《ちうしん》にならなければならないと見《み》て、茲《こゝ》にペルシヤ反撥《はんぱつ》と海事發展《かいじはつてん》とを目的《もくてき》にした會《くわい》を組織《そしき》し、力《ちから》をつくして此《こ》の思想《しさう》を鼓吹《こすゐ》した。そして彼《かれ》は二つの計畫《けいくわく》を立《た》てた。其《そ》の一つは多《おほ》く軍艦《ぐんかん》を建造《けんざう》することで、他《た》の一つは軍港《ぐんかう》をこしらへる事《こと》であつた。アテネ市《し》は海《うみ》から大分《だいぶ》隔《へだた》つて居《ゐ》て、當時《たうじ》未《ま》だ良《よ》い港《みなと》を持《も》たなかつた。比較的《ひかくてき》近いフアレロン灣《わん》があるけれども、普通《ふつう》商業上《しやうげふじやう》の港《みなと》としては役《やく》に立《た》つが、軍港《ぐんかう》としては好《よ》い場所《ばしよ》でない。灣《わん》の前方《ぜんぱう》に突出《とつしゆつ》した半島《はんたう》のうちにピレウスという處《ところ》がある。此處《ここ》は自然《しぜん》に山《やま》を負《お》うて申分《まをしぶん》のない地形《ちけい》を成《な》して居《ゐ》る。人工《じんこう》を加《くは》へて廣《ひろ》い港《みなと》とすれば、軍港《ぐんかう》と商港《しやうかふ》を兼ねることができる。アテネの海事《かいじ》を發展《はつてん》させるには、どうしても此《こ》のピレウスに港《みなと》を築《きづ》き、商船《しやうせん》が安全《あんぜん》に隱《かく》れられ、また海事保護《かいじほご》の海軍《かいぐん》の根據地《こんきよち》となる事《こと》のできる軍港《ぐんかう》としなければならぬ、と斯《か》う考《かんが》へたのであつた。ペルシヤの遠征《ゑんせい》に先《さき》だつて、これを見《み》ぬき、且《か》つ早《はや》く海軍振興《かいぐんしんこう》を唱《とな》へたのは、全《まつた》くテミストクレスの功勞《こうろう》で、また最《もつと》も偉《えら》いところであつた。  紀元前《きげんぜん》四九三|年《ねん》、即《すなは》ちペルシヤが第《だい》一|囘《くわい》遠征軍《ゑんせいぐん》を出《だ》した翌年《よくねん》に、テミストクレスはアテネのアルコン・エポニモスといふ役《やく》に擧《あ》げられた。彼《かれ》は紀元前《きげんぜん》五二七|年頃《ねんごろ》に生《うま》れたのであるから、當時《たうじ》三十四|歳《さい》前後《ぜんご》であつた。アテネは前《まへ》にも言《い》つた通《とほ》り共和政治《きようわせいぢ》で、アルコンと稱《しよう》する大臣《だいじん》のやうなものが毎年《まいねん》九|人《にん》選《えら》ばれて、其《そ》の人々《ひと/゛\》が國《くに》政治《せいぢ》を執《と》り行《おこな》つた。エポニモスは其《そ》の九|人《にん》の主座《しゆざ》で、總理大臣《そうりだいじん》とも言《い》ふべきものだつた。  彼《かれ》は、アルコン・エポニモスとなると共《とも》に、ます/\盛《さかん》にペルシヤ對抗《たいかう》の思想《しさう》を鼓吹《こすい》し、海軍振興《かいぐんしんこう》の方針《はうしん》を主張《しゆちやう》した。そして彼《かれ》は其《そ》の年《とし》自分《じぶん》の友人《いうじん》の詩人《しじん》フリニコスに勸《すゝ》めて、『ミレトス陷落《かんらく》』といふ悲劇《ひげき》をつくらせた。小《せう》アジヤに於《お》けるギリシヤ植民市《しよくみんし》の主謀《しゆぼう》となつて、ペルシヤ叛抗《はんかう》の旗《はた》を飜《ひるがへ》したミレトス市《し》のギリシヤ民族《みんぞく》が、ギリシヤ本國《ほんごく》が應援《おうゑん》に力《ちから》を盡《つく》さなかつたゝめに、傷《いた》ましくもペルシヤ軍《ぐん》の足下《そくか》に蹂躙《じうりん》されて、慘憺《さんたん》たる最期《さいご》を見《み》たことが書《か》かれたのである。テミストクレスはこれを公《おほやけ》の劇場《げきじやう》で歌《うた》はせ、大《おほ》いに人心《じんしん》を鼓舞《こぶ》した。  斯《か》くの如《ごと》くにして、テミストクレスは漸《やうや》く其《そ》の主張《しゆちやう》を貫《つらぬ》く第《だい》一|階段《かいだん》に達《たつ》し得《え》た。即《すなは》ちアテネ民會《みんくわい》の決議《けつぎ》としてピレウスの築港《ちくかう》をすることになつたのである。餘程《よほど》の大事業《だいじげふ》であつたが、彼《かれ》は、自《みづか》ら進《すゝ》んで其《そ》の工事《こうじ》を督《とく》し、先《ま》づ防禦《ばうぎよ》の境域《きやうゐき》をつくり始《はじ》めた。それと同時《どうじ》に、一|方《ぱう》では軍艦建造《ぐんかんけんざう》の事《こと》をも決議《けつぎ》させて、三|年《ねん》の間《あひだ》に七十|隻《せき》まで造《つく》つた。  さうかうして居《ゐ》るうちに、一|方《ぱう》ペルシヤのダリオスは第《だい》二|囘目《くわいめ》の遠征軍《ゑんせいぐん》を出《だ》す準備《じゆんび》をとゝのへて、先《ま》づ使《つかひ》をギリシヤの諸國《しよこく》に送《おく》つた。ダリオス王《わう》は、其《そ》の使《つかひ》をして『吾《われ》に汝《なんぢ》の水《みづ》と土《つち》とを献《けん》ぜよ』と言《い》はしめ、若《も》し汝《なんぢ》の土地《とち》を献《けん》じなければ、一|擧《きよ》にして汝《なんぢ》を撃《う》ち滅《ほろ》ぼさん、といふ意《い》を通《つう》じた。ギリシヤの諸小國《しよせうこく》では、此《こ》の聲《こゑ》に驚《おどろ》いて一|言《ごん》の下《もと》に其《そ》の要求《えうきう》に從《したが》ふものが多《おほ》かつた。處《ところ》アテネへも此《こ》の使《つかひ》が來《き》て同《おな》じ意思《いし》を傳《つた》へた。テミストクレスは主《しゆ》として之《これ》に反對《はんたい》して、無禮《ぶれい》の使《つかひ》斬《き》るべしと叫《さけ》んだ。アテネは終《つひ》に其《そ》の使《つかひ》を殺《ころ》して、來《きた》れ戰《たゝか》はんとの意氣《いき》を示《しめ》した。此《こ》の時《とき》スパルタでは、同《おな》じ事《こと》を言《い》つて來《き》たペルシヤの使《つかひ》を捉《とら》へて、いきなり井戸《ゐど》の中《なか》へ投《ほふ》りこんでしまつた。スパルタだけに、其《そ》の返事《へんじ》が自《おのづか》ら秀句《しうく》をなして居《ゐ》る。曰《いは》く、『水《みづ》と土《つち》が欲《ほ》しいと言《い》ふのなら是《これ》ではどうだ!』 ##マラトンの鬨《とき》の聲《こゑ》 ペルシヤ第二囘の遠征軍を出す……アテネの防戰……對騎兵戰策謀……ペルシヤ軍の敗走……ペルシヤの軍隊組織とデマラトスのギリシヤ軍評  ペルシヤ王《わう》ダリオスは、おのれ憎《につく》いギリシヤ人《じん》めら、東方《とうはう》の諸國《しよこく》を征服《せいふく》した我《わ》がペルシヤ軍《ぐん》の威勢《ゐせい》を知《し》らぬか、やがて眼《め》に物《もの》見《み》せて呉《く》れんとばかり、紀元前《きげんぜん》四九一|年《ねん》に、傳説《でんせつ》に依《よ》ると歩兵《ほへい》十|萬《まん》、騎兵《きへい》一|萬《まん》、軍艦《ぐんかん》六百|隻《せき》の遠征軍《ゑんせいぐん》を組織《そしき》し、今囘《こんくわい》は北《きた》の方《はう》へまはらず、陸兵《りくへい》を載《の》せた運送船《うんそうせん》を軍艦《ぐんかん》に護衞《ごゑい》させ、サモス島《たう》の附近《ふきん》から、不意《ふい》に西《にし》の方《はう》へと進《すゝ》み、途中《とちう》のナクソス、デロス、エウボイアなどの島々《しま/゛\》の諸市《しよし》を討《う》ち平《たひら》げて、勢《いきほ》ひ猛烈《まうれつ》に忽《たちま》ちアテネの西北《せいほく》のマラトンの原《はら》へ上陸《じやうりく》した。そしてペルシヤ軍《ぐん》は此處《ここ》で陣立《じんだて》を整《とゝの》へ、一|擧《きよ》にして先《ま》づ第《だい》一に目《め》ざすアテネを攻略《こうりやく》せんとした。  ギリシヤでは直《たゞち》に防戰《ばうせん》の方略《はうりやく》をとつたが、此《こ》の場合《ばあひ》、アテネは眞先《まつさき》に立《た》つて働《はたら》かねばならなかつた。即《すなは》ちアテネは他《た》の援軍《ゑんぐん》を待《ま》たず、殆《ほとん》ど獨力《どくりよく》で敵《てき》の上陸地《じやうりくち》たるマラトンへ向《むか》つた。重歩兵隊《ぢうほへい》輕歩兵《けいほへい》各々《おの/\》九千|人《にん》、外《ほか》にはプラテイエイ市《し》の兵《へい》が一千|人《にん》居《ゐ》たばかりで、ペルシヤの兵數《へいすう》は、實際《じつさい》には確《たしか》にその十|倍程《ばいほど》はなかつたらしいが、とまれアテネ軍《ぐん》より優勢《いうせい》であつたには相違《さうゐ》なかつた。  ペルシヤには剽悍《へうかん》をもつて名《な》を得《え》た騎兵《きへい》があつたが、アテネ軍《ぐん》には騎兵《きへい》がなかつた。廣《ひろ》いマラトンの原《はら》で此《こ》の優勢《いうせい》の敵《てき》と戰《たゝか》へば、必《かなら》ず騎兵《きへい》にまくしたてられて、如何《いか》に勇敢《ゆうかん》に戰《たゝか》つたとて對抗《たいかう》することは困難《こんなん》である。狹《せま》い處《ところ》に陣《ぢん》をかためて、此處《ここ》にくひ止《と》めるより外《ほか》はない。アテネ軍《ぐん》は斯《か》う軍議《ぐんぎ》を決《けつ》して、マラトンからアテネに來《く》るには必《かなら》ず通《とほ》らなければならない、狹《せま》い、嶮《けは》しい、入《い》りこんだハウラナの谷間《たにあひ》へ陣《ぢん》を取《と》つた。  アテネ軍《ぐん》には大將《たいしやう》が十|人《にん》あつて、それが毎日《まいにち》代《かは》る/゛\總指揮官《そうしきくわん》となつて、之《これ》を統率《とうそつ》することになつて居《ゐ》た。其《そ》の十|人《にん》の中《なか》にテミストクレスや後《あと》に出《で》るアリスチデス等《など》も居《ゐ》たが、こゝにミルチアデスといふ人《ひと》があつて、此《こ》の人《ひと》は特《とく》に戰術《せんじゆつ》に長《ちやう》じた、智勇《ちゆう》すぐれた大將《たいしやう》だつたので、テミストクレスを初《はじ》めとして他《ほか》の大將等《たいしやうら》は、なまじい自分《じぶん》たちが代《かは》り合《あ》つて總指揮官《そうしきくわん》となるやうな事《こと》をするよりも、寧《むし》ろ此《こ》のミルチアデスに總指揮官《そうしきくわん》の役《やく》を一|任《にん》してしまふ方《はう》がどれだけ良策《りやうさく》だか知《し》れないと言《い》ひ合《あ》はし、自《みづか》ら其《そ》の權利《けんり》を棄てゝ、ミルチアデスを推《お》してアテネ軍《ぐん》の總大將《そうたいしやう》とした。で、すつかり總指揮《そうしき》の權《けん》を委《ゆだ》ねられたミルチアデスは、此《こ》の要所《えうしよ》に陣《ぢん》をかためて、ペルシヤ軍《ぐん》の進撃《しんげき》して來《く》るのを今《いま》や遲《おそ》しと待《ま》ち構《かま》へた。  ペルシヤ軍《ぐん》では、アテネの寡兵《くわへい》何《なん》の事《こと》かあらん、たゞ一|蹴《しう》して突破《とつぱ》すべしといふ勢《いきほひ》で烈《はげ》しく攻《せ》めかゝつた。狹《せま》い處《ところ》で、騎兵《きへい》は用《もち》ひられなかつたから、歩兵《ほへい》ばかりで進撃《しんげき》して來《き》た。ミルチアデスは慌《あわ》てずに、ペルシヤ軍《ぐん》を此《こ》の谷《たに》へ牽附《ひきつ》けて置《お》いて、高《たか》い所《ところ》から一|時《じ》に矢《や》や投槍《なげやり》を雨《あめ》の如《ごと》くに射《い》かけて敵陣《てきぢん》を亂《みだ》し、其《そ》の亂《みだ》れた機《き》に乘《じよう》じてどつとばかりに突貫《とつくわん》した。流石《さすが》のペルシヤ軍《ぐん》も進退《しんたい》不自由《ふじいう》の谷間《たにあひ》で、死力《しりよく》を盡《つく》して戰《たゝか》ふアテネ軍《ぐん》の逆襲《ぎやくしふ》に敵《てき》しかね、忽《たちま》ちひるんで見《み》えた。アテネ軍《ぐん》は此處《ここ》ぞと、ます/\鋭《するど》く追捲《おひまく》つた。ペルシヤ軍《ぐん》は終《つひ》に敗北《はいぼく》して海岸《かいがん》さして退却《たいきやく》した。  此處《ここ》で少《すこ》しくペルシヤの軍隊《ぐんたい》とギリシヤの軍隊《ぐんたい》とを比較《ひかく》して見《み》よう。――ペルシヤの軍隊《ぐんたい》は、重歩兵《ぢうほへい》と輕歩兵《けいほへい》と騎兵《きへい》とで組織《そしき》された。重歩兵《ぢうほへい》は、甲冑《かつちう》を着《き》て槍《やり》と短劍《たんけん》を持《も》つて戰《たゝか》つた。此《こ》の重歩兵《ぢうほへい》はペルシヤ軍《ぐん》の中堅《ちうけん》となるもので、メヂヤ人隊《じんたい》とペルシヤ人隊《じんたい》とあつたが、其《そ》の數《かず》は何《いづ》れも一|萬人宛《まんにんづつ》で、殊《こと》に其《そ》のペルシヤ人隊《じんたい》は、『不死《ふし》の一|萬人《まんにん》』といふ稱《しよう》があつて、ペルシヤ軍隊中《ぐんたいちう》の最《もつと》も精鋭《せいえい》なものであつた。輕歩兵《けいほへい》は軍《ぐん》の多數《たすう》を占《し》めて居《ゐ》る兵種《へいしゆ》で、輕《かる》くよろひ、武器《ぶき》も弓矢《ゆみや》、投石《なげいし》、投槍《なげやり》の如《ごと》き遠方《えんぱう》から用《もち》ひるものを持《も》つた。騎兵《きへい》は其《そ》の數《かず》少《すくな》からず、馬《うま》は強《つよ》く、人《ひと》は甲冑《かつちう》を被《き》て頗《すこぶ》る剽悍《へうかん》に戰《たゝか》つた。ギリシヤでは最《もつと》も此《こ》の騎兵《きへい》を恐《おそ》れて居《ゐ》た。が、ペルシヤ軍《ぐん》は各兵種間相互《かくへいしゆかんさうご》の聯絡《れんらく》が充分《じうぶん》でなかつたので、動《やゝ》もすれば混亂《こんらん》し易《やす》く、且《か》つ其《そ》の陣形《ぢんけい》は單《たん》に四|角形《かくけい》で、前進《ぜんしん》する外《ほか》變化《へんくわ》少《すくな》く、戰術《せんじゆつ》も餘《あま》り發展《はつてん》はしなかつた。  ギリシヤの軍隊《ぐんたい》も、幹部《かんぶ》をなるものは重歩兵《ぢうほへい》で、甲冑《かつちう》を被《き》て楯《たて》と短劍《たんけん》と二|本《ほん》の槍《やり》を持《も》つて居《ゐ》る。其《そ》の槍《やり》の一|本《ぽん》は投《な》げつけるので、他《ほか》の一|本《ぽん》は突《つ》くのである。其《そ》の突《つ》く方《はう》の槍《やり》の長《なが》さは、身長《しんちやう》の二|倍《にばい》であつた。輕歩兵《けいほへい》は弓矢《ゆみや》投槍《なげやり》を持《も》つた。騎兵《きへい》に至《いた》つては極《きは》めて少《すくな》く、ギリシヤ軍隊《ぐんたい》の弱點《じやくてん》であつた。又《また》優勢《いうせい》の敵《てき》と野戰《やせん》することを避《さ》けざるを得《え》なかつたのは、是《これ》がためであつた。陣形《ぢんけい》はフアランクスと言《い》つて、各人《かくじん》の間《あひだ》に働《はたら》く隙間《すきま》を置《お》き、前列《ぜんれつ》の一人《ひとり》の肩後《けんご》には左右《さいう》に一人《ひとり》づつ控《ひか》へて居《ゐ》ることになつて居《ゐ》た。前列《ぜんれつ》の人《ひと》が傷《きず》つけば、後列《こうれつ》のものが直《たゞち》に之《これ》を助《たす》け 、また入代《いれかは》るやうになつて居《ゐ》たのである。現今《げんこん》の軍隊《ぐんたい》の如《ごと》き陣形《ぢんけい》の變化《へんくわ》は素《もと》よりなかつたけれども、ペルシヤに比《くら》べれば慥《たしか》に勝《まさ》つて居《ゐ》た。戰術《せんじゆつ》に於《お》いても。ギリシヤ軍《ぐん》はペルシヤ軍《ぐん》より優《すぐ》れたところがあつた。  ペルシヤの朝廷《てうてい》にデマラトスといふ者《もの》があつた。彼《かれ》はもとスパルタ二|王《わう》の一人《ひとり》であつたが、平和主義者《へいわしゆぎしゃ》であつた爲《ため》人望《じんぼう》を失《うしな》つた。そして、別王《べつわう》のクレオメネスが、彼《かれ》は先王《せんわう》の正嗣《せいし》でないことを唱《とな》へたので、つひに廢《は》ぜられて放逐《ほうちく》された。で、デマラトスはペルシヤに身《み》を寄《よ》せ、ダリオス王《わう》に降參《かうさん》して其《そ》の臣下《しんか》となつた。立太子《りつたいし》の議《ぎ》のあつた時《とき》、デマラトスはクセルクセス親王《しんわう》に向《むか》ひ、『殿《でん》下は弟君《おとうとぎみ》でこそおはせ、父王《ふわう》御即位《ごそくゐ》の後《のち》に生《うま》れ給《たま》うた第《だい》一|人《にん》におはせば、殿下《でんか》こそ正當《せいたう》の御正嗣《ごせいし》なれ』と言《い》つた。クセルクセスは此《こ》の理由《りいう》を父《ちゝ》に訴《うつた》へて終《つひ》に太子《たいし》となつた。されば、クセルクセス王《わう》の世《よ》となつては、デマラトスは大《おほ》いに王《わう》の信用《しんよう》を得《え》て、ギリシヤ征伐《せいばつ》にも從軍《じうぐん》したのであつた。  此《こ》のデマラトスは、ペルシヤ王《わう》がペルシヤ軍《ぐん》の勇猛《ゆうまう》を誇《ほこ》つて、『何者《なにもの》といへども、我《わ》が不死隊《ふしたい》に敵《てき》することはできないだらう』と言《い》つたのに答《こた》へて、『スパルタ人《じん》は、隊《たい》を組《く》まざるも、一人一人《ひとりひとり》で居《ゐ》て其《そ》の勇猛《ゆうまう》ペルシヤの不死隊《ふしたい》に敢《あ》へて讓《ゆづ》らず。それが若《も》し隊《たい》を組《く》む時《とき》は、彼《かれ》らは其《そ》の死生《しせい》を隊《たい》と共《とも》にする事《こと》があれば、彼《かれ》らの強勇果敢《きやうゆうくわかん》は無上《むじやう》と存《ぞん》じ申《まを》す』と言《い》つた。實際《じつさい》ギリシヤの兵《へい》の隊列《たいれつ》の固《かた》いことは、獨《ひと》りスパルタだけではない。此《こ》のペルシヤ王《わう》に對《たい》して答《こた》へたデマラトスの言葉《ことば》は、また他《た》のギリシヤ諸國《しよこく》の軍隊《ぐんたい》にも推《お》し及《およ》ぼすことができたのである。否《いな》此《こ》の言葉《ことば》は、陸軍《りくぐん》のみならず海軍《かいぐん》の方《はう》にも應用《おうよう》され得《う》るのである。  さて一|度《ど》アテネ軍《ぐん》に敗《やぶ》れたペルシヤ遠征軍《ゑんせいぐん》は、逸早《いちはや》く船《ふね》に乘《の》つて海《うみ》へ走《はし》つたと共《とも》に、此《こ》の敗《まけ》を勝《かち》に轉《てん》ずる計略《けいりやう》を立《た》てゝ、不意《ふい》に備《そなへ》の少《すくな》いアテネ市《し》に押《お》し寄《よ》せて、これに肉薄《にくはく》し、二心《ふたごころ》ある者《もの》に内應《ないおう》せしめようとした。が、智略《ちりやく》に長《ちやう》じたミルチアデスは、敵《てき》の裏《うら》をかくためにアリスチデスを戰場《せんじやう》に殘《のこ》し、自分《じぶん》は他《た》の大將等《たいしやうら》と共《とも》に急行《きふかう》してアテネの市《し》に歸《かへ》り、嚴重《げんじう》に此處《ここ》を固《かた》めたので、ペルシヤ軍《ぐん》の目的《もくてき》は終《つひ》に達《たつ》せられなかつた。斯《か》くの如《ごと》くにして、ダリオス王《わう》の第《だい》二|囘《くわい》のギリシヤ遠征《ゑんせい》も亦《また》失敗《しつぱい》に終《おは》つた。 ###アテネの海軍《かいぐん》擴張《くわくちやう》 [#2字下げ]テミストクレスの炯眼……海上防禦の方策……海軍擴張の財源……高士アリスチデスの反對……蠣殼投票……進取政策の勝利  マラトンの一|戰《せん》により遠《とほ》くペルシヤの遠征軍《ゑんせいぐん》を撃退《げきたい》するや、アテネの人々《ひと/゛\》は非情《ひじやう》に喜《よろこ》び、これで最早《もはや》遠征軍《ゑんせいぐん》の押《お》し寄《よ》せて來《く》る事《こと》もあるまいと思《おも》つて、誰《だれ》もペルシヤの事《こと》を心配《しんぱい》するものとてはなかつた。が、テミストクレスは、決《けつ》して此《こ》のまゝで遠征《ゑんせい》の手《て》を引《ひ》くものではない。必《かなら》ず更《さら》に大規模《だいきぼ》の計畫《けいくわく》をもつて、引續《ひきつゞ》いて押《お》し寄《よ》せてくるに相違《さうゐ》ないと。斯《か》う思《おも》つて來《き》て更《さら》に又《また》考《かんが》へた。若《も》しペルシヤが大規模《だいきぼ》の遠征《ゑんせい》を企《くはだ》てるとなると、野戰《やせん》では到底《たうてい》防《ふせ》ぎつゞけることができぬ。よしアテネ市《し》に堅固《けんご》な城壁《じやうへき》があつても、附近《ふきん》の地方《ちはう》を悉《こと/゛\》く攻略《こうりやく》されては、長《なが》く城《しろ》を守《まも》るといふことは難《むづ》かしい。飽《あ》くまでペルシヤを撃退《げきたい》しようとするには、海上《かいじやう》に於《お》いて防戰《ばうせん》するのが最上《さいじやう》の方策《はうさく》であると。  海上《かいじやう》でペルシヤの大軍《たいぐん》を防《ふせ》がうとするには、大《おほ》いに海軍《かいぐん》を振作《しんさく》して其《そ》の擴張《くわくちやう》を圖《はか》らなければならなかつた。僅《わづか》に七十|隻《せき》そこ/\の軍艦《ぐんかん》では、到底《たうてい》對抗《たいかう》する事《こと》ができない。現《げん》に第《だい》二|囘《くわい》の遠征軍《ゑんせいぐん》が襲《おそ》つて來《き》た時《とき》にも、敵《てき》の艦隊《かんたい》は六百|隻《せき》にも及《およ》んで居《ゐ》たので、とても出《い》でて戰《たゝか》ふ事《こと》はできず、見《み》す/\敵國《てきこく》の艦隊《かんたい》が威風堂々《ゐふうだう/\》と近海《きんかい》を遊弋《いうよく》するのを傍觀《ばうくわん》して、港内《かうない》深《ふか》く潜《ひそ》んで居《ゐ》なければならなかつたのである。テミストクレスは、少《すくな》くとも二百|隻《せき》の大戰艦《だいせんかん》を備《そな》へつける必要《ひつえう》を感《かん》じた。  が、ペルシヤの尚《なほ》恐《おそ》るべきを言《い》つて、斯《か》う説《と》き立《た》てゝ見《み》ても、多《おほ》くの人《ひと》は全《まつた》く安心《あんしん》しきつて居《ゐ》るので、此《こ》の場合《ばあひ》耳《みゝ》をかすものもない。テミストクレスは恐《おそ》るべき敵《てき》を前《まへ》に控《ひか》へながら、平然《へいぜん》として國防《こくばう》の大事《だいじ》を忘《わす》れて居《ゐ》る人々《ひと/゛\》の心《こゝろ》を悲《かな》しんだ。併《しか》し國難《こくなん》は目前《もくぜん》にあつた。どうにかして此《こ》の國難《こくなん》に對《たい》する用意《ようい》をしなければならなかつた。策略《さくりやく》に富《と》んだテミストクレスは早速《さつそく》一|策《さく》を案《あん》じた。其《そ》の當時《たうじ》アテネの貿易上《ぼうえきじやう》の敵《てき》にエギナといふ島《しま》の人民《じんみん》があつた。貿易上《ぼうえきじやう》の利害問題《りがいもんだい》から屢々《しば/\》衝突《しようとつ》して、アテネの貿易《ぼうえき》は、エギナの拿捕船《だほせん》のために害《がい》を受《う》けて居《ゐ》ることが少《すくな》くなかつた。テミストクレスは、即《すなは》ちこれを防《ふせ》いで貿易上《ぼうえきじやう》の利益《りえき》を保護《ほご》するといふ名目《めいもく》のもとに、海軍《かいぐん》の擴張《くわくちやう》を唱《とな》へたのである。  海軍《かいぐん》を擴張《くわくちやう》するには多《おほ》くの費用《ひよう》が要《い》る。其《そ》の費用《ひよう》にあてる適當《てきたう》の財源《ざいげん》を見《み》つけないでは、衆人《しうじん》の賛成《さんせい》を得《う》ることができなかつたので、テミストクレスは、またこれにも一|案《あん》を考《かんが》へ出《だ》した。アテネには銀山《ぎんざん》が多《おほ》い。これが政府《せいふ》の財産《ざいさん》になつて居《ゐ》た。政府《せいふ》自《みづか》らは採掘《さいくつ》せず、これを事業家《じげふか》に採掘《さいくつ》させて、毎年《まいねん》税金《ぜいきん》を納《をさ》めさせ、其《そ》の金《かね》によつて政府《せいふ》の諸費用《しよひよう》を辨《べん》じて、若《も》し剩餘《あまり》が殘《のこ》つた時《とき》には、之《これ》を市民《しみん》に分配《ぶんぱい》した。テミストクレスは、即《すなは》ち此《こ》の殘《のこ》つた金《かね》の分配《ぶんぱい》を廢《や》め、之《これ》を積《つ》んで置《お》いて海軍《かいぐん》擴張《くわくちやう》の財源《ざいげん》にする議案《ぎあん》を出《だ》したのである。  時《とき》にミルチアデスは既《すで》に死《し》んで居《ゐ》たが、彼《か》のアリスチデスはなほ健在《けんざい》で、テミストクレスと勢力《せいりよく》を競《きそ》つて居《ゐ》た。此《こ》の人《ひと》は家柄《いへがら》の生《うま》れで、全《まつた》くの正市民《せいしみん》であつた。そして非常《ひじやう》に正直廉潔《せいちよくれんけつ》で眞面目《まじめ》な堅實《けんじつ》な人《ひと》であつて、前《まへ》に述《の》べた如《ごと》く、彼《か》のマラトンの合戰後《かつせんご》、ミルチアデスが急行《きふかう》してアテネに歸《かへ》るに當《あた》つて、一|部分《ぶぶん》の兵《へい》を督《とく》してマラトンに留《とゞ》まり、戰爭《せんさう》の後事《こうじ》を引受《ひきう》けた位《くらゐ》の人物《じんぶつ》だつたので、人《ひと》から尊敬《そんけい》されてアテネの社會《しやかい》では最《もつと》も重《おも》きをなして居《ゐ》た。併《しか》しアリスチデスは、斯《か》ういふ人格《じんかく》の高《たか》い人《ひと》ではあつたが、其《そ》の意見《いけん》は着實《ちやくじつ》に過《す》ぎて保守《ほしゆ》に傾《かたむ》き、常《つね》に活潑進取的《かつぱつしんしゆてき》のテミストクレスとは反對《はんたい》の立場《たちば》んみあつた。即《すなは》ち海軍《かいぐん》のみに熱中《ねつちう》して人民《じんみん》の心《こゝろ》を外《そと》に向《む》けることに專《もつぱら》だと、彼《かれ》らをして徒《いたづら》に輕躁《けいさう》ならしむる虞《おそれ》がある。寧《むし》ろ是迄《これまで》のやうに農業本位《のうげふほんゐ》の主義《しゆぎ》をとり着實《ちやくじつ》な風《ふう》を守《まも》る事《こと》にして、國防《こくばう》の如《ごと》きも、陸軍《りくぐん》によつて敵《てき》の襲撃《しふげき》を防《ふせ》ぐがよいと主張《しゆちやう》した。  一|方《ぱう》は進取《しんしゆ》一|方《ぱう》は保守《ほしゆ》、一|方《ぱう》は海軍《かいぐん》一|方《ぱう》は陸軍《りくぐん》、全《まつた》く主張《しゆちやう》の方向《はうかう》が違《ちが》つて居《ゐ》るのであるから、此《こ》の兩雄《りやうゆう》はどうしても並《なら》び立《た》つことはできない。テミストクレスがいよ/\盛《さかん》に其《そ》の計畫《けいくわく》を貫徹《くわんてつ》せんとすれば、隨《したが》つて又《また》アリスチデスもいよ/\益々《ます/\》其《そ》の意見《いけん》を主張《しゆちやう》した。非常《ひじやう》の決心《けつしん》をもつて提出《ていしゆつ》したテミストクレスの此《こ》の海軍擴張案《かいぐんくわくちやうあん》に對《たい》しては、アリスチデスも亦《また》強《つよ》い覺悟《かくご》をもつて之《これ》に反對《はんたい》した。アリスチデスの此《こ》の反對《はんたい》があるために、海軍非擴張《かいぐんひくわくちやう》の説《せつ》にもなか/\勢力《せいりよく》があつて、容易《ようい》にテミストクレスは、其《そ》の意見《いけん》を貫《つらぬ》くことができなかつた。  近《ちか》いうちに、ペルシヤの軍勢《ぐんぜい》が必《かなら》ず大擧《たいきよ》して襲《おそ》つて來《く》るに定《き》まつて居《ゐ》るのに、斯《か》くの如《ごと》き爭論《さうろん》の間《あひだ》に、大切《たいせつ》な時《とき》を空《むな》しくすごしてしまうといふことは、如何《いか》にしてもテミストクレスの堪《た》へ得《え》ざる處《ところ》であつた。困難《こんなん》を思《おも》うては、一|刻《こく》も猶豫《いうよ》することはできないと決心《けつしん》して、終《つひ》にアテネの人民《じんみん》をしてオストラキズムス、即《すなは》ち蠣殼投票《かきがらとうへう》を行《おこな》はしめる事《こと》にし、これに依《よ》つて國論《こくろん》を一|決《けつ》し、速《すみやか》に自己《じこ》の政策《せいさく》を實行《じつかう》しようとした。  此《こ》の蠣殼投票《かきがらとうへう》といふのは、アテネ人《じん》が其《そ》の欲《ほつ》せざる政治家《せいぢか》を除《のぞ》くために用《もち》ひる一|種《しゆ》の制度《せいど》で、市民《しみん》は蠣《かき》の殼《から》へ、自分《じぶん》が此《こ》の人《ひと》が居《ゐ》ては國家《こくか》の爲《ため》に不利益《ふりえき》であると想《おも》ふ人《ひと》の名《な》を書《か》きつけて、祕密《ひみつ》に投票《とうへう》するのであつた。そして其《そ》の投票箱《とうへうばこ》を開《あ》けて之《これ》を算《かぞ》え、其《そ》の名《な》を多《おほ》く記《しる》された人《ひと》を、それが如何《いか》なる人物《じんぶつ》であつても、なんらの理由《りいう》を言《い》はずして、十|年《ねん》の間《あひだ》國外《こくぐわい》へ放逐《はうちく》してしまつたのである。投票《とうへう》の結果《けつくわ》は、アリスチデスの名《な》が多《おほ》くつて、終《つひ》に彼《かれ》は國外《こくぐわい》へ放逐《はうちく》されることになつた。此《こ》の蠣殼投票《かきがらとうへう》の當日《たうじつ》、アリスチデスを見知《みし》らぬ一人《ひとり》の賤民《せんみん》が往來《わうらい》で彼《かれ》を引《ひ》き留《と》め、『自分《じぶん》は無筆故《むひつゆえ》にこの蠣殼《かきがら》にアリスチデスの名《な》を書《か》いて給《たま》はれ』と言《い》つた。アリスチデスは『足下《そくか》は何故《なにゆゑ》彼《かれ》を放逐《はうちく》せんとするのか』と問《と》ふと、彼《か》の男《をとこ》は『別《べつ》に仔細《しさい》はないが、あまり人々《ひと/゛\》が彼《かれ》を責《せ》め立《た》てるのを聞《き》くのが五月蠅《うるさ》ければ』と答《こた》へた。アリスチデスは、長大息《ちやうたいそく》して其《そ》の言《い》ふままに己《おもれ》の名《な》を蠣殼《かきがら》の上《うへ》に書《か》いて去《さ》つた。とまれ之《これ》を以《も》つて見《み》るとアテネ人《じん》の心《こゝろ》は、既《すで》にアリスチデスの着實保守《ちやくじつほしゆ》の主義《しゆぎ》よりも、テミストクレスの敢爲進取《かんゐしんしゆ》の政策《せいさく》に傾《かたむ》いて居《ゐ》たといふ事《こと》が明《あき》らかであつた。で、テミストクレスは急《いそ》いで其《そ》の計畫《けいくわく》の實行《じつかう》に着手《ちやくしゆ》し、數年《すうねん》にしてピレウスの軍港《ぐんかう》が完成《くわんせい》すると共《とも》に、此《こ》の海軍擴張《かいぐんくわくちやう》も漸《やうや》くにして遂《と》げられた。  丁度《ちやうど》此《こ》の時《とき》にあたつて、果《はた》せるかな、ペルシヤは大規模《だいきぼ》な三|囘目《くわいめ》の遠征軍《ゑんせいぐん》を組織《そしき》し、今度《こんど》こそは一も二もなくギリシヤ諸國《しよこく》を征服《せいふう》しようと、堂々《どう/\》武威《ぶゐ》を張《は》つて其《そ》の本國《ほんごく》を進發《しんぱつ》した。 ###ペルシヤの大擧遠征《たいきよゑんせい》 [#2字下げ]第三囘のペルシヤ遠征軍……先王の意志を繼承せるクセルクセス王……ペルシヤ軍の兵數……ギリシヤの同盟……コリントの同盟會議……防戰の三代方略……テミストクレスの機略……防戰地點の論議……ギリシヤ軍の配備……ペルシヤ軍の侵入  第《だい》三|囘目《くわいめ》のペルシヤ遠征軍《ゑんせいぐん》の進發《しんぱつ》は、紀元前《きげんぜん》四八〇|年《ねん》の夏《なつ》で丁度《ちやうど》第《だい》二|囘目《くわいめ》の時《とき》から十|年《ねん》隔《へだ》たつて居《ゐ》た。  ペルシヤ王《わう》ダリオスは、二|囘《くわい》の遠征軍《ゑんせいぐん》が引《ひ》きつゞいて失敗《しつぱい》に終《をは》つたので、心《こゝろ》いよ/\激《げき》して更《さら》に大規模《だいきぼ》の遠征軍《ゑんせいぐん》を送《おく》る計畫《けいくわく》を立《た》てたが。紀元前《きげんぜん》四八六|年《ねん》、ダリオスは其《そ》の計畫《けいくわく》の成《な》るのを見《み》ずして死《し》んだ。其《そ》の子《こ》のクセルクセスは直《たゞち》に王位《わうゐ》に即《つ》き、父王《ふわう》の志《こゝろざし》をついで、ギリシヤ遠征《ゑんせい》の計畫《けいくわく》を急《いそ》いだが、其《そ》のうちにエヂプトに叛亂《はんらん》があつたりなどして、終《つひ》に第《だい》三|囘 《くわい》遠征軍《ゑんせいぐん》の進發《しんぱつ》までに十|年《ねん》の月日《つきひ》が經《た》つたのであつた。此《こ》の十|年《ねん》隔《へだた》りのあつてことは、防戰《ばうせん》するギリシヤ方《がた》にとつては此《こ》の上《うへ》もない幸《しあはせ》であつた。十|年《ねん》の間《あひだ》に内部《ないぶ》の整理《せいり》ができ、殊《こと》にアテネの如《ごと》きは其《そ》の發展《はつてん》著《いちじる》しく、先見《せんけん》あるテミストクレスの海軍擴張《かいぐんくわくちやう》も一|先《ま》づ完備《くわんび》したからである。  此《こ》の遠征《ゑんせい》に就《つ》いては、ペルシヤは必勝《ひつしよう》を期《き》して其《そ》の力《ちから》を傾《かたむ》けた。出發《しゅつぱつ》する三|年《ねん》も前《まへ》から、盛《さかん》に倉廩《さうりん》を造《つく》つて種々《しゆ/゛\》な軍備品《ぐんびひん》を貯《たくは》へ、また嚴《きび》しい命令《めいれい》を傳《つた》へて領内《りやうない》の諸國《しよこく》から兵《へい》や軍艦《ぐんかん》を集《あつ》めて、いよ/\進發《しんぱつ》となると其《そ》の軍容《ぐんよう》は實《じつ》に盛大《せいだい》を極《きは》めた。第《だい》三|囘《くわい》遠征軍《ゑんせいぐん》は陸兵《りくへい》四百二十萬人《まんにん》、軍艦《ぐんかん》一千二百七|隻《せき》と稱《しよう》せられた。考《かんが》へて見《み》ると、ドイツに於《お》いて一|師團《しだん》の行軍《かうぐん》の長《なが》さは約《やく》一|哩《マイル》である。これに依《よ》つて計《はか》れば四百二十|《まんにん》と稱《しよう》せられるペルシヤ陸軍《りくぐん》の延長は《えんちやう》は、約《およ》そ四百二十|哩《マイル》となる。まして其《そ》の頃《ころ》の軍隊《ぐんたい》は今《いま》のやうに規律《きりつ》の正《ただ》しいものでなかつたから、實際《じつさい》の延長《えんちやう》は更《さら》にこれよりも長《なが》くなつたものと見《み》なければならぬ。然《さ》うすれば、遠征軍《ゑんせいぐん》の先鋒《せんぽう》がギリシヤへ入《はい》つて居《ゐ》るのに其《そ》の後部《こうぶ》の部隊《ぶたい》は、まだペルシヤを發《はつ》することができない勘定《かんじやう》になる。かゝる大軍《たいぐん》に對《たい》する宿舍《しゆくしや》、兵糧《ひやうらう》はどうしたものであらうといふのが第《だい》一の疑問《ぎもん》である。日露戰爭《にちろせんさう》は空前《くうぜん》の大戰《たいせん》ではあるが、其《そ》の戰場《せんぢやう》に立《た》つたものは、兩軍《りやうぐん》を合計《がふけい》して一百|萬人《まんにん》に達《たつ》しない。昔《むかし》は兎角《とっく》數字《すうじ》を誇張《こちやう》した。殊《こと》にギリシヤ人《じん》の人情《にんじやう》として、寡《くわ》を以《も》つて衆《しう》を破《やぶ》つたことを名譽《めいよ》として居《ゐ》たから、其《そ》の邊《へん》の考察《かうさつ》は必要《ひつえう》である。實際《じつさい》戰場《せんぢやう》に立《た》つたペルシヤの陸兵《りくへい》は、勿論《もちろん》確《たしか》な數《すう》は分《わか》らないといふのが最《もつと》も正直《しやうじき》な處《ところ》であるが、先《ま》づ多《おほ》く見て二三十|萬人《まんにん》に過《す》ぎなかつたらうと思《おも》はれる。海軍《かいぐん》の方《はう》は、各屬領《かくぞくりやう》の出《だ》した内譯《うちわけ》もあつて、餘《あま》り此《こ》の數《すう》に誤《あやま》りはないやうに思《おも》ふ。何《いづ》れにした處《ところ》で、此《こ》の遠征《ゑんせい》は事實《じじつ》今《いま》までにない大規模《だいきぼ》のものであつた。且《か》つ前《ぜん》二|囘《くわい》とも、王《わう》は軍《ぐん》を統率《とうそつ》せずして本國《ほんごく》に居《ゐ》たが、今囘《こんくわい》は大王《だいわう》クセルクセス親《みづか》ら指揮《しき》をとつて此《こ》の遠征軍《ゑんせいぐん》の陣頭《ぢんとう》に立《た》つたのである。  此《こ》の大軍《たいぐん》の進發《しんぱつ》を聞《き》いたギリシヤ諸國《しよこく》も、亦《また》必死《ひつし》の覺悟《かくご》をしなければならなかつた。中《なか》には寧《むし》ろ降伏《かうふく》を欲《ほつ》する國《くに》もあつたが、アテネのテミストクレスは、之はギリシヤ民族全體《みんぞくぜんたい》の興亡《こうばう》に關《くわん》する絶大事《ぜつだいじ》であるから、飽《あ》くまで一|致結合《ちけつがふ》して外敵《ぐわいてき》にあたらなければならぬ、と先《ま》づスパルタに使《つかひ》を出《だ》して之《これ》を説《と》き、續《つゞ》いて諸國《しよこく》の結合《けつがふ》を計つた。そしてスパルタを以《も》つてギリシヤ諸國聯合《しよこくれんがふ》の覇主《はしゆ》に推《お》した。アテネではスパルタの勢力《せいりよく》が中部《ちうぶ》ギリシヤに擴《ひろ》がるのを喜《よろこ》んで居《を》らなかつたが、此《こ》の場合《ばあひ》結合《けつがふ》を固《かた》くするには中心《ちうしん》が必要《ひつえう》だつたので、自《みづか》らもスパルタを推《お》して覇主《はしゆ》としたのである。  斯《か》くてギリシヤでは、コリント市《し》に諸國《しよこく》の代表者《だいへうしや》を集《あつ》めて、ペルシヤ遠征軍《ゑんせいぐん》に對《たい》する防戰《ばうせん》の會議《くわいぎ》を開《ひら》いた。其《そ》の決議《けつぎ》の主《おも》なものは、第《だい》一ペルシヤの遠征《ゑんせい》に對《たい》する大方針《だいはうしん》を定《さだ》める事《こと》、第《だい》二|列邦間《れつぱうかん》の小紛爭《せうふんさう》は、此《こ》の際《さい》互《たがひ》に讓歩《じやうほ》して調和《てうわ》する事《こと》、第《だい》三|戰《たゝか》ふとも降《くだ》るとも決《けつ》せず兩端《りやうたん》をい持《ぢ》して日和《ひより》を見《み》て居《ゐ》る國々《くに/゛\》へ、更《さら》に使《つかひ》を送《おく》つて最後《さいご》の決心《けつしん》を促《うなが》す事等《ことなど》であつた。テミストクレスはアテネの使節《しせつ》として此《こ》の會議《くわいぎ》へ出席《しゆつせき》した。スパルタは名義《めいぎ》の上《うへ》からは會頭《くわいとう》であつたが、實際《じつさい》の議事《ぎじ》はテミストクレスと其《そ》の他《た》の二三|人《にん》が主《おも》に斡旋《あつせん》した。そして、結合《けつがふ》を固《かた》くするために列邦間《れつぱうかん》の小紛爭《せうふんさう》を調和《てうわ》する事《こと》に就《つ》いて、アテネは第《だい》一に最《もつと》も怜悧《りかう》な適例《てきれい》を示《しめ》した。即《すなは》ちアテネはこれまでエギナと爭《あらそ》つて居《ゐ》たのであるが、先《ま》づ讓歩《じやうほ》してエギナと調和《てうわ》した事《こと》である。エギナは、ギリシヤ列邦中《れつぱうちう》アテネに次《つ》いで有力《いうりよく》な海軍《かいぐん》をもつて居《ゐ》た。以《も》つてテミストクレスの機略《きりやく》を見《み》ることができる。  さて遠征軍《ゑんせいぐん》に對《たい》する戰略《せんりやく》である。多數《たすう》の意見《いけん》は、テツサリア州《しう》の北《きた》にあるテンペで防戰《ばうせん》しようといふにあつた。テンペといふのは、山《やま》と山《やま》の間《あひだ》の、狹《せま》い谷川《たにかは》の流《なが》れで、誠《まこと》に嶮岨《けんそ》なところで、所謂《いはゆる》一|夫《ぷ》道《みち》に當《あた》れば萬卒《ばんそつ》も超《こ》えることのできない要害《えうがい》である上《うへ》に、此處《ここ》をかためれば、何方《どつち》へつくとも分《わか》らない首鼠兩端《しゆそりやうたん》のテツサリヤ地方《ちはう》を壓《おさ》へて、敵《てき》に從《したが》はせない方便《はうべん》にもなる、といふのが主《おも》な理由《りいう》だつたのである。が、テミストクレスは大《おほ》いに此《こ》の説《せつ》に反對《はんたい》した。反對《はんたい》した理由《りいう》は、敵《てき》の陸海軍《りくかいぐん》は始終《しじう》接觸《せつしよく》を保《たも》つために海岸《かいがん》に沿《そ》つて進《すゝ》みつゝある。テンペで防戰《ばうせん》する事《こと》は陸軍《りくぐん》の方《はう》で或《あるひ》は都合《つがふ》が良《よ》いかも知《し》れないが、海面《かいめん》の廣《ひろ》い此《こ》の地點《ちてん》で戰《たゝか》ふ事《こと》は、ペルシヤに比《ひ》して優勢《いうせい》な艦隊《かんたい》をもたぬギリシヤ海軍《かいぐん》の甚《はなは》だ不利《ふり》とする處《ところ》である。一|時《じ》にペルシヤ軍《ぐん》を撃退《げきたい》しようとするには、どうしても海陸《かいりく》ともに狹《せま》い地點《ちてん》に據《よ》つて防《ふせ》がなければならぬといふにあつた。併《しか》し會議《くわいぎ》では此《こ》のテミストクレスの意見《いけん》は用《もち》ひられず、一先《ま》づ防戰地點《ばうせんちてん》はテンペと定《さだ》まつたて、スパルタの兵《へい》は早《はや》くもテンペに向《むか》つたが、若《も》し此處《ここ》で敵《てき》の海軍《かいぐん》を防《ふせ》ぐことができないとなると、敵《てき》は軍《ぐん》を二|分《ぶん》し、一|部分《ぶぶん》を此《こ》の方面《はうめん》に向《む》け、他《た》の一|部分《ぶぶん》を海上《かいじやう》よりもつと先《さき》の地點《ちてん》へ上陸《じやうりく》させる虞《おそれ》のある事《こと》が其《そ》の後《ご》になつて氣《き》づかれたので、復《ふたゝ》びテミストクレスの獻策《けんさく》が議《ぎ》にのぼり、其《そ》の結果《けつくわ》前決議《せんけつぎ》が飜《ひるがへ》されて、終《つひ》に陸上《りくじやう》ではテルモビレー、海上《かいじやう》ではアルテミシオン岬《みさき》の西《にし》にあるオレオス水道《すゐだう》で邀《むか》へ撃《う》つ事《こと》になつた。テルモビレーは、一|方《ぱう》は海《うみ》で一|方《ぱう》は斷崖《だんがい》で、今《いま》は遙《はるか》に海《うい》が遠《とほ》くなつて居《ゐ》るけれども、其《そ》の頃《ころ》は此《こ》の斷崖《だんがい》と海《うみ》との間《あひだ》わづかに一|車《しや》を通《つう》じ得《う》るぐらゐの狹《せま》い處《ところ》で、此處《ここ》も寡勢《くわぜい》で防《ふせ》ぐには屈竟《くつきやう》な要害《えうがい》であつた。又《また》アルテミシオン岬《みさき》は、エウボイア島《たう》の一|角《かく》で、近《ちか》く大陸《たいりく》に接《せつ》して海峽《かいけふ》をなして居《ゐ》る。其《そ》の西《にし》にあるオレオス水道《すゐだう》は、殊《こと》に狹《せま》いところである。此處《ここ》に據《よ》れば、割合《わりあひ》に劣勢《れつせい》でも能《よ》く優勢《いうせい》の敵《てき》を防《ふせ》ぐことができる筈《はず》なのである。  ギリシヤでは此《こ》の戰略《せんりやく》に從《したが》つて、直《たゞち》に海陸軍《かいりくぐん》の配備《はいび》をした。海軍《かいぐん》も陸軍《りくぐん》も其《そ》の其《そ》の總指揮官《そうしきくわん》は列邦《れつぱう》の覇者《はしや》と推《お》されたスパルタより出《だ》すことゝして、即《すなは》ちレオニダス王《わう》は陸軍《りくぐん》を率《ひき》ゐてテルモビレーを守《まも》り、エウリピアデスは海軍《かいぐん》を統《す》べてアルテミシオンに防禦線《ばうぎよせん》を張《は》つた。  斯《か》くの如《ごと》き間《あひだ》にペルシヤの大軍《たいぐん》は海陸《かいりく》の連絡《れんらく》を保《たも》ちつゝ、潮《うしほ》の押《お》しよせるがごとき勢《いきほひ》をもつてヨーロツパに入《はい》り、愈々《いよ/\》進《すゝ》んでギリシヤの北方《ほくはう》に迫《せま》つた。そして、テンペの防禦《ばうぎよ》の撤《てつ》せられたのを知《し》るや、勢《いきほひ》に乘《じよう》じて南《みなみ》に下《くだ》り、沿道《えんだう》の諸州《しよしう》を席捲《せきけん》して、一|直線《ちよくせん》に中部《ちうぶ》ギリシヤに向《むか》つて攻《せ》めかゝつた。  テルモビレーの狹路《けふろ》は、早《はや》くも既《すで》にペルシヤ軍《ぐん》先鋒《せんぽう》の視界内《しかいない》に入《はい》つた。兩軍《りやうぐん》の血戰《けつせん》は方《まさ》にここ數日《すうじつ》の間《あひだ》に迫《せま》つたのである。 ##テルモビレーの血雨《けつう》 [#2字下げ]スパルタの勇將レオニダス……ギリシヤ軍の覺悟……兩軍の對陣……ペルシヤ軍の進撃……ギリシヤ軍の勇戰……賣國奴の内通……間道の突破……ギリシヤ軍窮境に陷る……スパルタ人の死守……壯烈なるギリシヤ勢の最期……スパルタ人氣質……テルモビレーの碑石  時《とき》にテルモビレーの隘路《あいろ》には、總司令官《そうしれいくわん》レオニダスが居《ゐ》たけれども、其《そ》の旗下《きか》には僅《わづか》に三百|人《にん》のスパルタ貴族《きぞく》と一千|人《にん》のラケダイモン平民兵《へいみんへい》が居《ゐ》た外《ほか》に、之《これ》に從《したが》ふフオーキス、テーベ、テスビエー以下《いか》諸國《しよこく》の兵《へい》も餘《あま》り多《おほ》くは居《ゐ》ず、ギリシヤ方《がた》の配備《はいび》はペルシヤの大軍《たいぐん》に對《たい》して頗《すこぶ》る手薄《てうす》であつた。これは列國《れつこく》がペルシヤが斯《か》うも早《はや》く押《お》しよせて來はしまいと思《おも》つて居《ゐ》たので、丁度《ちやうご》この時《とき》あつたオリンピア大祭《たいさい》を濟《す》ましてから、充分《じうぶん》に兵《へい》を送《おく》つて配備《はいび》をすれば可《い》いと考《かんが》へて居《ゐ》たのであつた。然《しか》るに忽《たちま》ち眼《め》にあまるペルシヤの大軍《たいぐん》が進撃《しんげき》して來《き》たので、ギリシヤ方《がた》の諸國《しよこく》の司令官《しれいくわん》は、此《こ》の手薄《てうす》い配備《はいび》では到底《たうてい》敵勢《てきぜい》を防《ふせ》ぐ事《こと》ができないから、一先《ひとま》づ此處《ここ》を棄てゝコリントの地峽《ちけふ》の所《ところ》まで退却《たいきやく》しようと主張《しゆちやう》したが、レオニダスはこれを聽《き》かず、吾々《われ/\》は飽《あ》くまで此處《ここ》で防戰《ばうせん》しなければならぬと言《い》つて、頻《しき》りに諸國《しよこく》の援兵《ゑんぺい》を促《うなが》しつゝ、必死《ひつし》の覺悟《かくご》を示《しめ》して一|歩《ぽ》も此《こ》の處《ところ》を退《しりぞ》かなかつた。  ペルシヤ王《わう》のクセルクセスは此《こ》のテルモビレーに近《ちか》づくや、先《ま》づ斥候《せきこう》を放《はな》つてギリシヤ軍《ぐん》の動静《どうせい》を偵察《ていさつ》せしめた。斥候《せきこう》は歸《かへ》つて來《き》て、『敵《てき》の多少《たせう》の程《ほど》は狹路《けふろ》に築《きづ》いた壁《かべ》に隱《かく》れて見《み》えねど、壁《かべ》の外《そと》に居《ゐ》る者共《ものども》は、平然《へいぜん》として武技《ぶぎ》を練習《れんしふ》して居《を》り、又《また》長《なが》き髮《かみ》を梳《くしけづ》りつゝあるを見受《みう》く』と報告《ほうこく》した。クセルクセスは奇異《きい》な事《こと》に思《おも》つて、即《すなは》ち彼《か》のスパルタ降將《かうしやう》デマラトスを招《まね》き、『かゝる危急《ききふ》の場合《ばあひ》にあたつて、敵《てき》は暢氣《のんき》らしく髮《かみ》などを梳《くしけづ》りつゝあるよしなるが、これ如何《いか》なる故《ゆゑ》ぞや』と問《と》ひ質《ただ》した。デマラトスは、『かねて御出陣《ごしゆつぢん》の際《さい》、スパルタ人《じん》の氣風《きふう》に就《つ》いて言上《ごんじやう》申《まを》せし時《とき》、陛下《へいか》には、誇張《こちやう》の言《げん》として列座《れつざ》の人々《ひと/゛\》とともに、たゞ御《ご》一|笑《せう》の下《もと》におきゝ流《なが》しあらせられしやうなるが、今《いま》こそ臣《しん》が言上《ごんじやう》のことは、事實《じじつ》として御前《ごぜん》に顯《あらは》れつれ。スパルタ人《じん》は、戰死《せんし》を覺悟《かくご》したる時《とき》は、豫《あらかじ》め髮《かみ》を解《と》いて見苦《みぐる》しくなきやうに梳《くしけづ》り置《お》く習慣《ならはし》なれば、彼《かれ》らが今《いま》髮《かみ》を梳《くしけづ》りつゝあるは、死《し》を以《も》つて此處《ここ》を守《まも》る決心《けつしん》と察《さつ》せられ申《まを》す』と答《こた》へた。クセルクセス王《わう》はそれを信《しん》ぜず、『死《し》を以《も》つて守《まも》ると言《い》ふか。彼《かれ》らはあればかりの小勢《こぜい》で、如何《いか》にして我《わ》が大軍《たいぐん》と戰《たゝか》ふことを得《う》べきや』と更に問《と》うた。デマラトスは、『陛下《へいか》、すべての成行《なりゆき》が臣《しん》の言上《ごんじやう》する通《とほ》りでなければ、その時《とき》こそ臣《しん》は虚言者《うそつき》として甘《あま》んじて罰《ばつ》を受《う》け申《まを》さん』と答《こた》へた。が、クセルクセスはなほ此《こ》の言葉《ことば》を信《しん》ぜず、大軍《たいぐん》の勢威《せいゐ》を示《しめ》して敵《てき》をして自《みづか》ら退却《たいきやく》させようと、四|日間《かかん》其處《そこ》に待《ま》つて樣子《やうす》を見《み》て居《ゐ》たが、ギリシヤの方《はう》では、更《さら》に退却《たいきやく》しさうな氣振《けぶり》さへも見《み》せなかつた。  五|日目《かめ》になつて、終《つひ》にクセルクセスはメヂヤ隊《たい》に號令《がうれい》をくだして、『彼《かれ》らを悉《ことごと》く生捕《いけどり》にして來《こ》い!』と命《めい》じた。メヂヤ隊《たい》は命《めい》を受《う》けて烈《はげ》しく攻《せ》めかかゝたが、ギリシヤ方《かた》は之《これ》に應《おう》じて槍《やり》を交《まじ》へ、一|歩《ぽ》も退《しりぞ》かずして散々《さん/゛\》にメヂヤ隊《たい》を惱《なや》ました。心激《こゝろえき》した王《わう》は、更《さら》に猛勇《まうゆう》を以《も》つてペルシヤ軍中の誇《ほこり》として居《ゐ》る例《れい》の不死隊《ふしたい》をさしまねき、メヂヤ隊《たい》と更《かは》つて一|氣《き》に敵勢《てきぜい》を突《つ》き破《やぶ》れよと命令《めいれい》した。不死隊《ふしたい》の勇兵《ゆうへい》は、猛烈《まうれつ》に突《つ》きかゝつたが、道《みち》が狹《せま》いために多《おほ》くの兵《へい》をい動《うご》かすことができず。且《か》つ其《そ》の槍《やり》はギリシヤ兵《へい》に比《ひ》して短《みじか》かつたので、焦《あせ》りに焦《あせ》つても敵陣《てきぢん》を破《やぶ》ることができなかつた。獨《ひと》り突崩《つきくづ》せなかつたのみならず、其《そ》のうちには少《すくな》からず兵《へい》を傷《いた》められて、ペルシヤ勢《ぜい》は寧《むし》ろ多《おほ》く苦《くる》しめられた。スパルタ人《じん》は、態《わざ》と後《うしろ》を見《み》せて退却《たいきやく》の樣《さま》を示《しめ》し、敵《てき》を誘《おび》き寄《よ》せ、敵《てき》が勢《いきほひ》に乘《じよう》じて追《お》つて來《く》る處《ところ》を、不意《ふい》に取《と》つてかへして猛烈《まうれつ》に襲撃《しふげき》し、さしもの不死隊《ふしたい》を辟易《へきえき》せしめて撃退《げきたい》したことが、數箇度《すうかど》に及《およ》んだ。  さて其《そ》の翌日《よくじつ》になつて、クセルクセスは、如何《いか》なギリシヤ人《じん》でも前日《ぜんじつ》の戰《たゝかひ》に疲《つか》れて今日《けふ》は到底《たうてい》防《ふせ》ぎきれまいと、更《さら》に不死隊《ふしたい》をして突撃《とつげき》せしめたが、ギリシヤ各國《かくこく》の兵《へい》は入《い》り代《かは》り立《た》ち代《かは》り能く戰《たゝか》つて、ペルシヤ勢《ぜい》をして、テルモビレーの狹路《けふろ》より一|歩《ぽ》も内《うち》へ入《い》れしめなかつた。クセルクセスは、漸《やうや》くにしてデマラトスの言葉《ことば》に思《おも》ひあたり、大《おほ》いにギリシヤ軍《ぐん》の實力《じつりよく》を認《みと》めると共《とも》に、此《こ》の大軍《たいぐん》をしてこれぐらいゐの狹路《けふろ》に何時《いつ》まで遮《さへぎ》られるのかと深《ふか》く無念《むねん》がつた。  斯《か》くの如《ごと》くペルシヤ軍《ぐん》が焦《じ》れに焦《じ》れて居《ゐ》る時《とき》に當《あた》つて、ギリシヤ人《じん》のエフイアルテスといふ賣國奴《ばいこくど》が、此《こ》のテルモビレーの山上《さんじやう》にカリドロモス山道《さんだう》と稱《しよう》する一|條《ぜう》の間道《かんだう》のある事《こと》を密告《みつこく》した。クセルクセス王《わう》は手《て》を打《う》つて喜《よろこ》び、直《たゞち》に勇將《ゆうしやう》ヒダルネスに不死隊《ふしたい》を授《さづ》け、ひそかに間道《かんだう》を越《こ》えて敵《てき》の背後《はいご》に出《で》ることを命《めい》じた。ヒダルネスは暮雲《ぶん》の漸《やうや》く天地《てんち》を包《つゝ》む時《とき》を待《ま》ち、彼《か》のエフイアルテスを案内者《あんないしや》とし、輕裝《けいさう》した一|隊《たい》を率《ひき》ゐ、聲《こゑ》をひそめつゝ木《き》の根《ね》を這《は》ひ岩角《いはかど》を攀《よ》ぢてカリドロモスの間道《かんだう》を辿《たど》り、天明《てんめい》に近《ちか》く漸《やうや》くにして山《やま》の頂《いたゞき》にちかづいた。ほぼ暗《くら》い間《あひだ》から望《のぞ》むと、其處《そこ》に一千|人《にん》餘《あま》りのフオーキス人《じん》が配備《はいび》されて此《こ》の峠《とうげ》を守《まも》つて居《ゐ》るのが認《みと》められた。が、フオーキス人《じん》は今頃《いまごろ》ペルシヤ軍《ぐん》が其《そ》の油斷《ゆだん》して居《ゐ》る處《ところ》を見《み》すまして、烈《はげ》しく矢《や》を射《い》かけて攻撃《こうげき》した。フオーキス人《じん》は驚《おどろ》き慌《あわ》てゝ切所《せつしよ》を塞《ふさ》いで敵《てき》を支《さゝ》へんとはせず、山《やま》の最《もつと》も高《たか》い所《ところ》へ駈《か》けのぼり、此處《ここ》で初《はじ》めて決死《けつし》の陣立《ぢんだて》を整《とゝの》へた。が、ヒダルネスは、これがために前路《ぜんろ》が開《ひら》けたので、フオーキス人《じん》には目《め》もくれず、すぐに降道《くだりみち》について敵《てき》の主力《しゆりよく》の背後《はいご》に出《で》る事《こと》を急《いそ》いだ。  山上《さんじやう》にあつてペルシヤ軍《ぐん》に驚《おどろ》かされたフオーキス人《じん》の一|部《ぶ》は、ペルシヤ軍《ぐん》より遙《はるか》に先《さき》に山《やま》を下《くだ》り、ギリシヤの陣中《ぢんちう》に走《はし》つて之《これ》を總司令官《そうしれいくわん》レオニダスに通《つう》じた。レオニダスは切齒《せつし》して、易々《やす/\》と敵《てき》に此《こ》の間道《かんだう》を越《こ》えさせた事《こと》を心外《しんぐわい》に思《おも》つたが、もう何《なに》も遅《おそ》かつた。斯《か》うなれば、今《いま》はただギリシヤ軍《ぐん》には、飽《あ》くまで此處《ここ》にとゞまつて防戰《ばうせん》するか、ヒダルネスが下《くだ》りきる前《まへ》に此《こ》の狹路《けふろ》を棄《す》てゝ退却《たいきやく》するか、此《こ》の二つの方法《はうはふ》の何《いづ》れかを採《と》るより外《ほか》はなかつた。飽《あ》くまで此處《ここ》に踏《ふ》みとゞまらんか、腹背《ふくはい》から大軍《たいぐん》の襲撃《しふげき》を受《う》ける事《こと》であるから、全滅《ぜんめつ》を期《き》さなければならぬ。狹路《けふろ》を棄《す》てゝ退《しりぞ》かんか、猛撃《まうげき》を受《う》けて廣野《くわうや》へ追《お》ひ出《だ》され、剽悍《へうかん》なる其《そ》の騎兵《きへい》に蹂躙《じうりん》されるに定《き》まつて居《ゐ》るから、惨憺《さんたん》たる壓殺《あつさつ》を覺悟《かくご》しなければならなかつた。されど剛毅《ごうき》のレオニダスは、自分《じぶん》は本國《ほんごく》を出《い》づる時《とき》『テルモビレーを固守《こしゆ》せよ』といふより外《ほか》の訓令《くんれい》を有《いう》せざれば、一|歩《ぽ》でも此處《ここ》を退却《たいきやく》したなら即《すなは》ち國命《こくめい》に背《そむ》くことになると信《しん》じて、健氣《けなげ》にも自分《じぶん》とスパルタ兵《へい》だけは此所《ここ》を動《うご》かず死守《ししゆ》する外《ほか》はないと信《しん》じた。されど同盟諸國《どうめいしよこく》の兵《へい》には、かゝる義務《ぎむ》を負《お》はせる事《こと》もないと考《かんが》へて、彼等《かれら》に早《はや》く退却《たいきやく》すべき事《こと》を命《めい》じ、たゞ首鼠兩端《しゆそりやうたん》のテーベ人《じん》のみは人質《ひとじち》として之《これ》を放《はな》さず、自分《じぶん》は三百のスパルタ貴族《きぞく》と、これに從《したが》ふラケダイモン州《しう》の平民《へいみん》と、獨《ひと》り此處《ここ》に名譽《めいよ》の全滅《ぜんめつ》を期《き》して飽《あ》くまでも防戰《はうせん》する事《こと》に決心《けつしん》の臍《ほぞ》を固《かた》めたのである。で、同盟諸國《どうめいしよこく》の兵《へい》は止《や》むなくスパルタ人《じん》のみを殘《のこ》して此處《ここ》を去《さ》つたが、獨《ひと》り其《そ》のうちのテスピエー人《じん》のみは、此《こ》の壯烈《さうれつ》なスパルタ人《じん》の覺悟《かくご》を見《み》て義憤《ぎふん》を發《はつ》し、死《し》なば諸共《もろとも》にと敢然《かんぜん》として此《こ》のテルモぴれーの難境《なんきやう》に留《とゞ》まつた。  一|方《ぱう》のクセルクセス王《わう》は、太陽《たいやう》の出《い》づるに臨《のぞ》んで斎戒沐浴《さいかいもくよく》して天《てん》を拜《はい》し、間道《かんだう》を登《のぼ》つた一|隊《たい》の成功《せいこう》を信《しん》じて、豫《あらかじ》め謀《はか》つてあつた如《ごと》く早朝《さうてう》から烈《はげ》しく戰《たゝかひ》を挑《いど》んだ。決死《けつし》の難鬪《なんとう》を覺悟《かくご》したスパルタ人《じん》とテスピエー人《じん》は、狹《せま》い所《ところ》から進出《しんしゆつ》して稍《やゝ》廣《ひろ》い前面《ぜんめん》に現《あらは》れ、奮激突戰《ふんげきとつせん》われ劣《おと》らじといきまき鬪《たゝか》つた。ペルシヤ方《がた》も亦《また》能《よ》く奮戰《ふんせん》した其《そ》の司令官等《しれいくわんら》は後《うしろ》から鞭《むち》を振《ふる》つて兵《へい》の退却《たいきやく》を威嚇《ゐかく》し、励聲《れいせい》して前進《ぜんしん》を叫《さけ》んだのであつた。が、ギリシヤ人《じん》の突撃《とつげき》が激《はげ》しいために、進《すゝ》む事《こと》も退《しりぞ》く事《こと》もならず空《むな》しく海中《かいちう》に押《お》しつめられて溺死《できし》したものも多《おほ》かつた。ギリシヤ勢《ぜい》は益々《ます/\》元氣《げんき》を加《くは》へて力鬪《りきとう》した。唯《たゞ》さへ果敢《くわかん》なギリシヤ人《じん》の、死《し》を決《けつ》した鉾先《ほこさき》はいとど猛烈《まうれつ》を加《くは》へて、まことに面《おもて》も向《む》けられず、ペルシヤ方《がた》では、單《たん》に士卒《しそつ》のみならず、名《な》ある將校《しやうかう》も少《すくな》からず殪《たふ》れた。就中《なかんづく》クセルクセス王《わう》の二|庶弟《しよてい》アプロコメスオオyびヒベランテスも亦《また》同《おな》じ枕《まくら》に戰死《せんし》した。  如何《いか》に死力《しりよく》を盡《つく》して戰《たゝか》ふギリシヤ方《がた》とて素《もと》より鐵石《てつせき》の身《み》ではない。次第《しだい》に傷《きず》は重《かさ》なり、槍《やり》は折《を》れ、殪《たふ》るゝものも亦《また》多《おほ》くなつた。いで潔《いさぎよ》く斬死《きりじに》せんと、レオニダスを初《はじ》め、一|同《どう》玉散《たまち》る短劍《たんけん》を拔《ぬ》きつれ、どつと喚《をめ》いて敵陣《てきぢん》に躍《をど》り入《い》り、當《あた》るを幸《さいは》ひ從横無盡《じううむじん》に斬《き》り立《た》てたが大將《たいしやう》レオニダスは滿身鮮血《まんしんせんけつ》に染《そ》まりんがら飽《あ》くまで勇戰《ゆうせん》して終《つひ》に亂軍《らんぐん》の中《なか》に討死《うちじに》した。斯《か》くと見《み》るよりペルシヤ方《がた》は先《さき》を爭《あらそ》つて其《そ》の屍《しかばね》を奪《うば》はうとしてがギリシヤ方《がた》は如何《いか》で之《これ》を敵人《てきじん》の手《て》に渡《わた》すべき、此《こ》の屍《しかばね》の周圍《しうゐ》に一|時《じ》激烈《げきれつ》なつ戰鬪《せんとう》が行《おこな》はれたが、ギリシヤ方《がた》んじょ奮戰努力《ふんせんどりよく》は其《そ》の功《こう》を奏《そう》し、王《わう》の屍體《そたお》を遂《つひ》に其《そ》の手《て》に納《をさ》めた。それを後方《こうはう》に運《はこ》ぶにあたつて、ペルシヤ方《がた》は四|囘《くわい》まえ之《これ》を追撃《つゐげき》したが、四|囘《くわい》んがら見事《みごと》に追《お》ひ掃《はら》はれた。  恰《あたか》も此《こ》の時《とき》、背後《はいご》に鬨《とき》の聲《こゑ》があつた。賣國奴《ばいこくど》エフイアルテスの案内《あんない》に依《よ》つて間道《かんだう》を越《こ》したペルシヤ軍《ぐん》は、今《いま》や山道《さんだう》を降《お》りきつて、難戰苦鬪《なんせんくとう》の極《きよく》にある此《こ》のギリシヤ軍《ぐん》の後《うしろ》を襲《おそ》はうとするのであつた。ギリシヤ人《じん》は、いよ/\最期《さいご》の時《とき》が來《き》た。今《いま》はこれまでぞと、復《ふたゝ》び狹《せま》い路《みち》の所《ところ》へ退却《たいきやく》し、一つの丘《をか》へ登《のぼ》つた。味方《みかた》はもう大半《たいはん》戰死《せんし》して、殘《のこ》つて此の丘《をか》にあるものも、創痍《きず》を負《お》はぬものは稀《まれ》で、槍《やり》を持《も》つて居《ゐ》る者《もの》とては一人《ひとり》もなかつた。ホツと息《いき》を吐《つ》いて居《ゐ》ると、時《とき》を得《え》た前後《ぜんご》の敵軍《てきぐん》は、さながら怒濤《どたう》の岩《いは》を噛《か》む勢《いきほひ》で、此《こ》の丘《をか》目《め》がけて群《むらが》り襲《おそ》つた。が、斯《か》うなつて大將《たいしやう》を失《うしな》つても、一人《ひとり》として降《かう》を思《おも》ふものもなければ、また此《こ》のまゝ空《むな》しく死《し》ぬものもなかつた。彼《かれ》らは相呼應《あいこおう》しながら、更《さら》に短劍《たんけん》を揮《ふる》つて近《ちか》づき寄《よ》る敵兵《てきへい》を斃《たふ》し、劍《けん》が折《を》れゝば赤手《せきしゆ》をもつて敵兵《てきへい》に躍《をど》りついて其《そ》の咽喉《のど》をしめ、或《あるい》は齒《は》をもつて其《そ》の頸《くび》に噛《か》みつき、最後《さいご》まで力鬪《りきとう》して、スパルタ人《じん》もテスピエー人《じん》も、あはれ一人《ひtり》殘《のこ》らず壯烈《そうれつ》極《きはま》る戰死《せんし》を遂《と》げた。  テーベ人《じん》は、初《はじめ》からはか/゛\しく戰《たゝか》はず、又《また》彼《か》の烈士等《れつしら》が最期《さいご》の舞臺《ぶたい》たる丘《をか》の上《うへ》にも登《のぼ》らず、おめ/\と全體《ぜんたい》を擧《あ》げて敵《てき》に降《かう》を請《こ》うた。  テルモビレーに於《お》ける此《こ》のギリシヤ人《じん》の勇戰《ゆうせん》に關《くわん》し、今《いま》に傳《つた》ふべき逸話《いつわ》が少《すくな》からず殘《のこ》つて居《ゐ》る。三百|人《にん》のスパルタの勇士《ゆうし》のうちに、ヂエネケスといふものがあつた。三百の人々《ひと/゛\》は何《いづ》れ劣《おと》らぬ猛者《もさ》で、其《そ》の勇戰《ゆうせん》に甲乙《かふおつ》とてはなかつたが、殊《こと》に此《こ》のヂエネケスの勇猛《ゆうまう》は目《け》ざましかつたと傳《つた》へられて居《ゐ》る。テルモビレーの戰《たゝかひ》の初《はじ》めの頃《ころ》に、トラキス市《し》の一|兵《ぺい》が戰況《せんきやう》を報《ほう》じて、『敵《てき》の大軍《たいぐん》は矢《や》を射《い》ること雨《あめ》の如《ごと》く、太陽《たいやう》ために暗《くら》し』と告《つ》げるや、ヂエネケスは答《こた》へて、『トラキスの客《きやく》は好《よ》き報知《ほうち》をもたらすものかな。我々《われ/\》は日陰《ひかげ》で戰《たゝか》ふことができる』と言《い》つた。スパルタ人《じん》は、實《じつ》に斯《か》くの如《ごと》き氣概《きがい》をもつて戰《たゝか》つたのである。  同《おな》じスパルタ人《じん》に、エウリトスとアリストデモスといふ二人《ふたり》があつた。共《とも》に此《こ》の陣中《ぢんちう》に來《き》て居《ゐ》たが、兩人《ふたり》とも眼病《がんびやう》にかゝつて、烈《はげ》しい疼痛《とうつう》に惱《なや》んだ。レオニダスは兩人《ふたり》を近所《きんじよ》のアルベノイといふ市《し》へ送《おく》つて、其處《そこ》で休養《きうやう》させた。處《ところ》がエウリトスは、ペルシヤ人《じん》が間道《かんだう》から廻《まは》つたといふ事《こと》を聞《き》いて、スパルタ人《じん》は最早《もはや》全滅《ぜんめつ》を期《き》して戰死《せんし》するに違《ちが》ひない。自分《じぶん》は今《いま》眼《め》を病《や》んで居《ゐ》るとは言《い》ひながら、此《こ》の時《とき》になつて何《なん》として其《そ》の數《かず》に洩《も》れることができようと、眼《め》が盲目《めくら》も同然《どうぜん》であるから奴隷《どれい》に命《めい》じて甲冑《かつちう》を着《き》させた上《うへ》、其《そ》の手《て》に導《みちび》かれて戰場《せんじやう》に臨《のぞ》み、奴隷《どれい》は去《さ》るにまかして、エウリトスは驀地《まつしぐら》に敵陣《てきぢん》の眞中《まんなか》に突入《つきい》り、不自由《ふじいう》な身《み》ながら縱横に暴れまはつて、終《つひ》に亂槍《らんさう》の下《もと》にテルモビレー山上《さんじやう》の露《つゆ》と消《き》えた。  アリストデモスは、病《やまひ》の爲《ため》に自由《じいう》を失《うしな》つた身《み》を悲《かな》しみながら、空《むな》しく輾轉《てんてん》して後《あと》に殘《のこ》つたが、幸《さいはひ》にペルシヤ人《じん》にも見出《みいだ》されなかつたので、色々《いろ/\》辛苦《しんく》のうちに杖《つゑ》にすがつて郷國《くに》に歸《かへ》つた。然《しか》るにスパルタ人《じん》は、よし病氣《びやうき》にかゝつて居《ゐ》たところで、戰場《せんじやう》に立《た》つたものは皆《みな》名譽《めいよ》の戰死《せんし》を遂《と》げたのに、たゞ一人《ひとり》逃《に》げて歸《かへ》つて來《く》るとは何《なん》たるスパルタ人《じん》らしからざる事《こと》ぞと言《い》つて、一口《ひとくち》に彼《かれ》を卑怯《ひけふ》なるアリストデモスと名《な》づけ、誰一人《だれひとり》言葉《ことば》を交《かは》すものもなければ、又《また》火《ひ》を與《あた》へるものもなかつた。アリストデモスは斯《か》くの如《ごと》く人々《ひと/゛\》から侮辱《ぶじよく》を受《う》けて、憤慨《ふんがい》措《お》く能《あた》はず、ひそかに天《てん》を仰《あふ》いで無念《むねん》の涙《なみだ》を呑《の》んだ。そして其《そ》の翌年《よくねん》プラテイエイの戰《たゝかひ》に臨《のぞ》んで、アリストデモスは比類《ひるゐ》なき働《はたらき》をして花々《hな/゛\》しい戰死《せんし》を遂《と》げた。此《こ》の花々《はな/゛\》しい戰死《せんし》を見《み》て、スパルタ人《じん》は初《はじ》めてアリストデモスの志《こゝろざし》を憐《あはれ》んだ。  ローマ人《じん》の如《ごと》き勇敢《ゆうかん》な人民《じんみん》でも、カンネーにハンニバルと戰《たゝか》ついて大敗《たいはい》しながらも生《い》きて歸《kへ》つて來《き》た大將《たいしやう》パロ以下《いか》に對《たい》し、元老院《げんらうゐん》は殊《こと》にこれを歡迎《くわんげい》して其《そ》の善《よ》く戰《たゝか》つたことを感謝《かんしや》した。然《しか》るにスパルタでは、多少《たせう》寛容《くわんよう》すべき理由《りいう》のあるアリストデモスの生歸《せいき》を極端《きよくたん》に侮辱《ぶじよく》して之《これ》を罵《のゝし》つた。これに依《よ》つても、當時《たうじ》のスパルタが如何《いか》に深《ふか》く敢爲《かんゐ》、勇猛《ゆうまう》の氣象《きしやう》を保《たも》つて居《ゐ》たかを知《し》ることができる。テルモビレーに於《お》けるレオニダス以下《いか》の壯烈《さうれつ》なる勇士《ゆうし》の戰死《せんし》も、此《こ》のアリストデモスの事蹟《じせき》があつて、更《さら》に一|段《だん》の華《はな》を添《そ》へたのである。實《じつ》に此《こ》のテルモビレーの戰《tゝかひ》は、東《ひがし》のペルシヤと西《にし》のギリシヤとの衝突《しようとつ》を語《かた》る上《うへ》に於《お》いて、重要《ぢうえう》んる項目《かうもく》の一たるにとゞまらず、當時《たうじ》のギリシヤ魂《だましい》を知《し》るためにも、亦《また》頗《すこぶ》る重要《ぢうえう》んる事蹟《じせき》である。後《のち》に、スパルタでは此處《ここ》へ一|基《き》の碑石《ひせき》を建《た》てた。其《そ》の碑面《ひめん》には、   『旅人《たびびと》よ。スパルタに行《い》つて言《い》へ、吾々《われ/\》は國命《こくめい》を守《まも》りて此處《ここ》に死《し》せり』  と記《しる》されてある。簡單《かんたん》な文字《もじ》ではあるが、能《よ》く此《こ》のテルモビレーの狹路《けふろ》に奮戰力鬪《ふんせんりきとう》したギリシヤ人《じん》の精神《せいしん》と事蹟《じせき》を語《かた》つて、千|載《ざい》の下《もと》に今《いま》もなほ赫々《かく/\》たる光《ひかり》を放《はな》つて居《ゐ》る。 底本:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111709 入力:A-9 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