聖徳太子と社會事業 ――本邦社會事業の「父」としての御事蹟―― 淺野研眞 著 佛教社會學院パンフレツト第九册 ##一、序説 茲に「社會事業」などと云ふと、それは近年に至つて、歐米の先進國から輸入されたものであるかの如くに、一概に思ひたしてゐる人々が多いやうであるが、これは以ての外のことであり、甚だしい思ひ違ひと云はねばならない。  尤も、明治維新以後に至つて、やつと布教を「默許」されるに至つたキリスト教の外國宣教師たちが、いはゆる「社會事業」を看板として、開教戰線を展開したことは、極めて顯著なるものがあつたのである。先づ高遠な、抽象的な「靈の救濟」を説く前に、卑近な、具體的な「肉の救濟」を説くことに出でたのであつた。その賢明な布教戰術は、確かに効果的なものであつた。  それに、廢佛毀釋によつて萎縮し切つてゐた佛教界は、徳川時代の温室的な保護政策から突ツ放された上でのことであり、云はゞ「泣き面に蜂」の情勢下にあつて、正法の護持さへが危殆に瀕してゐたのであつて、第二次的な社會事業などに、本當に手が廻らなかつたのであらう。  そこへ、新來の文化背景を帶同した外來のキリスト教が、維新變革後の産業革命に連れて増大する歐米型の貧困に對して、先づ一役を買つて出たのであつた。と云ふよりは、何よりも先づ、この「社會事業」を第一線に動員して、その布教行軍を進めたのであつた。かくして「社會事業」とし云へば、それが宛かもキリスト教の專賣でさへあるかの如き景觀を一時乍ら呈したのも、亦、止むを得ざることであつた。  しかし、常に歴史は繰り返へされる。文化は向上螺旋的に展進する。一時的風潮は、やがて退潮し、清算されるものだ。と云ふことは、今日に至つて見ると、却つてキリスト教社會事業が、在來の日本佛教社會事業に刺激を興へて、その眠りを覺醒せしめ、一大躍進を結果せしめたことによつて、再考されねばならないのである。  一起一状はあるとも、その文化内容は、決して喪失されてゐなかつた傳來久しき或が日本佛教は、すばやく新來の「樣式」を呑み込んで、その上に、飽く迄も「佛心者大慈悲是」のイデーを實現せんとしたのであつた。今日、その量に於ても、亦その質に於ても、我が佛教社會事業が、斷然リードの状態にあるのも、決して故なきものではなからう。  況んや現代の如く、文化反省の時代に於ては、徒らに外來型によるのでなしに、我が傳統型を良く再吟味して、我が固有の法による獨自性を發見すべきである。外國模倣の時代は過ぎ去つた。我々は須らく、我が國史上の先蹤に學ぶべきである。 ##ニ、本邦社會事業の始祖としての聖徳太子  我々は今や、我國獨自の社會事業を要望するものであるが、そのために吾々は我國社會事業の史的發展を尋ねて、その源流に於て、畏れ多くも、我が聖徳太子を見出し奉るのである。これは實に、何とも云へない愉快なことであると申さねばならぬ。  壓制を事とした貴族や上流支配階級が、貧民大衆の反撃を恐れての「安全辯」的な慈善救濟事業、社會事業なるものがある。世界各國の實例に徴するに、そうしたものが一般的であり、而かも「申し譯け」的に試みられたものが多かつたのである。即ち、かゝる事業ならば、その起源に於て、既に不純であり、決して大乘菩薩行ではない。  然るに我が國史上に於けるものは、これがヨーロツパ的中世、乃至はアメリカ的近世に初まるものではなくして、既に千三百年以前の古代に初まるものであつて、而かも當時の聖天子の下に輝かしき攝政の高位に在しましたる我が聖徳太子に初まるものである。そして其が大乘佛教の指導精神によつて、純眞なる菩薩行として果遂されたものであつた。かゝる肇業の聖史は、世界何れの所にも、之に對比すべきものがないであらう。  去る昭和九年十月、我が日本赤十字社が、第十五回赤十字國際會議の開催を機として、日本救濟史料展覽會を催した時、我が聖徳太子をば「本邦社會事業の始祖」として、之を參加五十數ヶ國の代表を通じて、全世界に紹介したることは、吾人の年來の持論の世界的擴充として、欣快の至りであつたのである。  實に斯く云ふ私は、昭和三年夏、渡歐に先つて、當時の『現代佛教』誌上に、「日本社會事業の父としての聖徳太子」を論述したものであつた。そして其の小論は、先年拙著『日本佛教社會事業史』の中に、若干補筆の上、收録されてゐるのであるが、茲には又、若干、その後の研究と思惟を土臺として、再論述を試みることにしたのであつて、我が太子の御聖業の正しき認識を、彌が上にも深めたいと念願して止まないものである。  だが、この日本社會事業の父祖としての太子の位置に就ては、敢て私の獨創的唱説ではなく、既に古く井上友一氏の如きは、その名著『救濟制度要義』に於て「要するに上世、施藥・悲田二院の制は、佛教の傳來と共に始めて興りたるものにして、其業や亦實に宗教的理想に淵源せるを知るべし。」(六一頁)と述べ、太子に於ける佛教社會事業の原初性を暗示され、また境野黄洋氏の如きは、一層ハツキリと其著『聖徳太子傳』中に、「これ(四ヶ院)が實に(日本)佛教上の慈善事業として、最も古いものであることは、誰も認める所であらう。」(大正六年版、一三六頁)と述べられたものである。  それらを實は百尺筆頭更に一歩を進めて、あからさまに「父祖」と稱び奉ることにしたのは、或は私などではなかつたらうかと恐縮してゐた次第であつた。然るに先年の萬國赤十字社會議に於て、かかる御稱呼が、云はば「公認」化されるに至つたことは、何んとも云へない喜ばしいことであつた。  ところで、我が太子の御事蹟としては、既に引用されたやうに、かの施藥・悲田等の四ヶ院が其れであつて、この四ヶ院による四天王寺の建設こそは、太子の御事蹟の中、その最も組織的な、且つ體系的な顯現であつたのである。 ##三、四天王寺の四ヶ院  實に太子が、その廣大なる佛教精神に立脚されて、實踐的な民衆愛を展開され給ひしものとしては、何と云つても難波の四天王寺に於ける四ヶ院の建立を擧げねばなるまい。よつて茲に之を略説することにしやう。  まづ、その建立に就て云へば、四天王寺こそは、我が太子の發願によるもので、即ち用明天皇の二年、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を征するに當り、時に十四歳の厩戸皇子は、その軍の後に隨ひ、白膠子《ねりてのき》を切り取つて四天王の像を作り、これを頂髮《たきふき》に置いて誓ひ給ふやう、「今若し我をして敵に勝たしめば、必ず當に護世四天王の奉爲に寺塔を起立せむ」と。  かくして決戰の結果、馬子の軍が勝つたので、誓言通りに建立せられたのが、この四天王寺であつた。(岩波文庫本『日本書紀』下卷八二頁)。  而して今、この四天王寺の構成をみるに、それは單なる佛像安置や、民衆禮拜のための靈場と云ふのではなくして、實に組織的、體系的な社會救濟の設備を具有したものであつた。即ち一個の綜合的なセツルメントであつたのである。  云ふまでもなく、四天王寺は、四個院から成り立つて居たものである。即ち四個院とは、敬田院、施藥院、療病院、悲田院の四ヶ院これである。  いま四天王寺の縁起由來を知るために、比較的古い文献たる『四天王寺御手印縁起』一卷によることに致し度いと思ふが、そも/\此の一卷は、一條天皇の寛弘四年八月に同寺金堂で發見され、太子の自筆に係るものだと稱するが、もとより左樣に古いものではなく、何れ發見された時代か、それより一寸以前に編述されたものであらうと云はれてゐる。しかし其の内容からする時は、架空の記述と云ふべきではなく、確實な材料によつたものと認めることが出來、法隆寺、大安寺等に傳へる伽藍縁起並流記資財帳の如き史料が元になつてゐると思はれるから、相當に信憑に價ひするものとされてゐる。(橋川正『綜合日本佛教史』四七頁)  そこで、此の『御手印縁起』によつて記述を試みるに、前述の如く、四天王寺は四ヶ院より成り、その各々が、それ/゛\特別の機能を持つてゐたものである。先づ第一の敬田院は、寺の本部又は本坊(金堂)であつて、本尊を安置せる靈域であつて、その地内の廣さは、東西が八丁、南北が六丁であつた。而して他の三院は、寺垣の外の北に、西から東へ、施藥院、療病院、悲田院といふ順序で、並んで建つてゐたものである。  所で、右縁起の文句により、この四ヶ院の「建立意趣」なるものを記述すれば、大要、次の如くである。 [#折り返して2字下げ](一)敬田院――「一切衆生歸依褐仰、斷惡修善、速證[#二]無上大菩提[#一]處也。」 [#折り返して2字下げ](二)施藥院――「是れ一切芝草藥物の類を殖生せしめ、方に願ふて藥を合せ、各樂ふ所に隨ふて、普く以て施與す。」 [#折り返して2字下げ](三)療病院――「是れ一切男女、無縁の病者を寄宿せしめ、日日に養育すること、師長父母の如く、病比丘に於ては相順ふて病治し、藤肉を禁物し、願築する所に任せて、服差して愈えしむ。但し日期を限り、三寶に祈乞して、無病に至らしめ、戒律に違すること莫し。」 [#折り返して2字下げ](四)悲田院――「是れ貧窮孤獨、單己無頼の者を寄住せしめ、日日眷願して、飢渇に致らしむること莫し。若し勇壯強力を得る時は、四個院の雜事に役使せしむべし。」(大日本佛教全書、第一一八卷、六四頁)  この記述を見る時は、右の縁起が太子自筆のものたらずとも亦、よし其れが若干後年の構成に關するものであつたとしても、今の吾々の研究にとつては、極めて重要なシステムを傳へた文献であると云はねばならない。  實に、廣汎なる現代的なソシヤル・セツツルメントの施設の一大先驅であつたのであり、これが我が日本に於て、既に千三百年以前に設計され、計畫されてゐたと云ふことは、全く文化史的驚異でなくして何ぞ! と叫ばざるを得ないのである。まことに、聖徳太子に於ける社會事業の御施設は、徹底的に組織的なものであつたのであつて、かくの如き古代に於て、之に匹敵すべきものは、歐米社會事業史上にも、見當らないであらう。  さて然らば、かくの如き綜合的システムによる四ヶ院の社會施設は、その經營は如何にまかなはれたのであつたか、即ち、その經濟的基礎は、どんなであつたのかと云ふに、右の『縁起』に、  「其の養料物は、攝津、河内の兩國は、毎年官稻參千束、是を以て使用而已」 とあつて、その費用は官費で支辨され、絶大なる國庫の支援を得てゐたものであつた。即ち太子の御名によつて、一種官營的な性質を附與されてゐたものであつた。而して特に社會施設としての三ヶ院の重要性を高調し、「三箇院は國家の大基、教法の最要なり」(同縁起)とまで述べられてゐる所を見ると、當代に於ける佛教的社會實踐のイデオロギーが如何なるものであつたかを、如實に觀得することが出來やう。  ところで、かかる整備せる形態の下に於ける四ヶ院の組織は、どれだけの期間にわたつて存續したものであつたかと云ふに、その存續期間を示した明らかな記録はないが、聖戒及び圓伊の筆になる正安元年の『一遍聖繪』によると、四天王寺の西門が描かれて、そこには多くの非人小屋や躄車を見るから、悲田院の退轉後も、鎌倉時代の頃までは、非人の集合所となつてゐたことは確かであらう。  現に大阪市には天王寺の悲田院町の名を留めてゐるところから云つても、四ヶ院制度の崩壞後も、少くとも悲田院の名稱だけは、久しく世人の記憶に殘つてゐたものであらねばならぬ。況んや極く近年に至つては、一般社會事業の興起に伴つて、極めて近代的な四天王寺施藥療病院が立派に設置され、昭和佛教社會事業の一偉觀となつてゐるのは、太子の御芳蹟を生かした有益な施設として、吾人の禮讃して止まない所のものである。 ##四、行路病者救助と藥獵  太子の社會事業の御事蹟としては、何と云つても、右の四天王寺の體系的御事業を以て古今東西に冠たるものとして、これを奉讃して止まざるものであるが、尚ほ史乘の傳ふる所の斷片によつて、太子御自身の實踐し給ひし社會事業に關する御事蹟を若干記述せねばならない。  先づ其の一つは、太子が途上、かつて行路病者を救助されたことであつて、『日本書紀』に傳ふる所を引用すれば、次の如くである。―― [#1字下げ]「廿一年……十二月、かのえうまの朔、皇太子、片岡にいでます。時に飢者みちのほとりにふせり。よつて姓名をとひ給へども申さず。皇太子みそなはして飮食をたまふ。即ち衣裳をぬいで飢者におほひてのたまはく、やすくふせよ、すなはち歌よみてのたまはく、 [#2字下げ]しなてるや、片岡山に、飯《いひ》に飢《え》て、臥《こや》せる此の旅人《たびと》あはれ、親無しに、汝生《なな》りけめや、茂竹《きすたけ》の君はや無き、飯に飢て、臥せる此の旅人、あはれ。 [#1字下げ]「かのとひつじの日、皇太子、つかひを遣《きた》して、飢者をみせしめ給ふ。……。」(岩波文庫本、一〇七頁)  これは、若干の傳説もあるやうであるが、何れにせよ、一度ならず、二度までも、貧しき飢えたる行路病者を心にかけられたことは爭はれないことであつて、それ自體、太子の廣大なる慈悲心を物語るものであらう。  尚ほ『日本書紀』には、太子の御事蹟の一として、「十九年夏五月五日、兎田野《うたの》に藥獵《くすり》す」(前掲書一〇五頁)とあつて、この藥獵も亦、社會事業に關連を持つたものであつたのではないかと見られてゐるのである。  然し之には、若干吟味すべき餘地があるやうであつて、たとへば故境野博士の如きは、 [#1字下げ]「太子は當時の狩獵を樂む弊害を矯正せんが爲め、藥獵といふことを始め、公卿大臣が相携へて、野に藥草を採り、所謂野遊びを娯樂の方法とし、また之によつて一方には自然醫術の進歩、或は慈善事業の手助けとなるやうなことをせられたものである。」(前掲書、一八二頁)と述べられ、また最近も此説を辻博士は踏襲されて、「聖徳太子が藥獵と云ふことを始められまして、本當の狩獵の代りに、藥を採つて獵に代へられたと云ふことも有名な話である」(啓明會講演集『社會事業と佛教』)と述べてゐられるが、此説に對しては故橋川正教授の反駁がある。即ち、 [#1字下げ]「藥獵については、普通に太子が獸獵に代ふるに藥獵を以てしたと解して居るが、誤解は、藥獵を直樣、藥草獵としたことに基く……藥獵とは夏獵の別名で、鹿の若角の袋、即ち鹿茸の獵を行ふことで、鹿茸は筋肉を壯んにし、一切靈損を治すと云ふ強壯劑として特効を有する。……これ全く大陸の風習をそのまゝ輸入したのであつて、決して藥草獵ではない。從つてこれを太子の慈悲行の一發現とするのは、史實の解釋を誤つたものである。然しその誤解の由來も仲々古いのであつて、既に太子傳歴に麗々しく載せて居るが、なほ今日に於ても、その説が行はれて居るから、ここに誤解を釋いておきたい。」(『日本佛教と社會事業』一〇――一一頁)  尚ほ黒板博士も「藥獵は藥用とすべき鹿の袋角を獲る爲めに行はるゝものといふ」(岩波文庫本『日本書紀』一一八頁)と記せられてゐて、「藥草獵」説は、どうやら信憑するに價ひしないものであるらしいのであるが、何れにせよ、施藥などにも使用されたものであらうからして、所詮「太子の慈悲行の一發現」と見ることだけは、どの道、大して差しつかへないことにならう。否、太子の御事蹟としては、當然かくあつたことであらう。 ##五、太子に於ける指導精紳――結び  最後に、かゝる太子に於ける廣汎なる社會事業の御事蹟は、如何なるイデオロギーによつて發現せられたものであつたかと云ふことを一言せざるを得ないのである。  云ふまでもなく、かゝる太子の廣大なる慈悲行は、一言にして蔽へば、大乘佛教のイデオロギーを以て、その指導原理とするのである。然し平田篤胤などのやうに誤解してはならぬことは、太子は決して佛教のみを偏執された方ではなかつたのであつて、日本固有の敬神道を中核として、新來文化としての儒教及び佛教を進取的に採り入れられたまでのことであつた。即ち廣く知見を世界に求められたのであつた。そして輝かしい綜合文化の花を咲かしめられたのであつた。吾々は決して、此の太子に向つて、平田流の惡罵? を放つてはならないのである。  要するに太子は、十七條憲法の中、僅かに第二條に於て「篤く三寶を敬へ」と宣せられたのみであつて、凡てを佛教色に塗りつぶされてゐるものではないのだ。從つて「太子佛教」こそは、眞の綜合的な「惟神佛教」であり、また「皇道佛教」であることを反省再思すべきであつて、佛教徒だけが「贔負の引倒し」式の奉讃をなすべき筋合ひのものではなく、全民衆の間に太子奉讃運動が擴充されねばならないのである。  所で、太子に於ける社會事業は、全體としては、かゝる綜合的文化體系より出發するものなること、多言を要しないが、もつと直接的には、これは大乘經典からの流出であるやうに拜察されるのである。即ち太子は親ら、勝鬘、維摩、法華の三經の義疏を御製作になつてゐるのであるが、これらの經典には、それぞれ深遠なる社會救護のイデオロギーが展開されてゐるのである。  即ち法華經には有名な「三界は安きことなし、猶ほ火宅の如し。……唯だ我れ一人のみ、能く救護をなす。」(譬喩品)などの章句があり、推古女帝に講進せられし勝鬘經には勝鬘夫人の所謂「十大受」(十大期誓)なるものがあつて、その第六受及び第八受は、純然たる救貧救護の期誓であり、維摩經に於ても亦、かゝるイデオロギーの開示を見るのである。  而かも勝鬘疏に優婆塞戒經を引用せられてゐる所によるも、同經の供養三寶品にある報恩品、功徳品、貧窮品の三福田による三寶供養の法(縮藏、列二、三四丁左)を、太子は承知されてゐたものであらう。尚ほ又、同經の雜品には、「膽病舍を作つて病所須を具し、飮食湯藥以て之を供給す」(同四二丁右)と説かれてゐるのである。して見れば、これらのイデオロギーの指示によつて、それらを{綜合}する四ヶ院の施設を創定されたのであつて、これ又、單に古代印度の模倣のみではなかつたと見るべきであらう。  尚ほ太子に出發した惟の四ヶ院の施設は、その後多くの隨喜者を出し、國史上幾多の施藥院、悲田院等を生んだのであるが、現代に於ても亦、その御事蹟は、「寺院のセツルメント化」に對して、潑刺たる靈感を吾人に垂れてゐるのである。(完) 昭和十二年三月五日印刷 昭和十二年三月八日發行 【定價會十錢】 (送料二錢)  東京市外吉祥寺三三七 編輯發行兼印刷人   淺野研眞  東京市牛込區早稻田鶴卷町一〇七 印刷所   株式會社 康文社印刷所  東京市外吉祥寺三三七、佛陀社内 發行所   佛教社會學院出版部 振替東京八一四八四番(佛陀社口座) [#本文終わり] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1091736 [#1字下げ]浅野研真(1937)『聖徳太子と社会事業』仏教社会学院出版部. 入力:A-9 このテキストは、フロンティア学院図書館(https://arkfinn.github.io/frontier-library/)で作成されました。