西洋社會思想史 ――プラトン理想國より社會契約説まで―― 佐野 學著 #西洋社會思想史 ##序 一、畏友早稻田大學商學部々長伊知地純正教授から御依頼があつたので、昨年十月から本年二月までの間に同商學部一年の學生諸君に西洋社會思想史といふ講義をした。なにぶん短い期間だつたので十九世紀の思想にまで及び得なかつた。序論のなかで云つてあるように、日本の敗戰は世界史的にみれば東洋の西洋にたいする新しい敗北といひうるから、われ/\は新たに眞摯に西洋を學び直さねばならないし、それには西洋文明の淵源をなすギリシア、ローマ文明及びキリスト教にまでさかのぼらねばならない。本書はごく概論的なものにすぎぬ。人に教へるといふよりも自分のために西洋社會思想を一應學び直して覺え書をしたものといふ意味のものである。 二、われ/\は西洋の思想を「できあがつたもの」としてうけとり、そのため公式主義に陷つたりするが、西洋の學説も思想も各時代の現實の矛盾を解決するためにヨウロッパの最良の頭腦が血をしぼつて作り出したものである。われ/\はそれらを全人類的な文化的所産として追體驗すると共に、東洋の歴史經驗と照らし合はせて、われ/\じしんのものに作り直さねばならない。この意味で本書ではところ/゛\に東洋の思想との對比をこゝろみておいた。 三、私は長く獄中生活をしたり戰災で本が燒けたりしたので參考書がまことに乏しくて困つた。そこで私の對象とした思想家の原典を一二册づゝ熟讀してその直接印象を學生諸君に話す方法を採つた。そのなかでもプラトンの國家篇、セネカの幸福論、新約聖書、マキアヴエリのローマ史論、ホップスのレヴィアタン、スピノーザの政治論集などの面白きにいまさらながら眼をみはり深い尊敬を感じた。ルッソウやロツクなどはどうも私にはあまり面白くない。 四、本書の續篇としてユートピヤ社會主義からマルクス、レーニン主義に至る社會主義史を叙し且つそれらに對する批判を述べた一書を公にするつもりである。   一九四七年三月 [#地付き]佐野 學 [#改ページ] #西洋社會思想史 ##序論 ###(一)  これから社會思想史の講義をします。主として西洋の社會思想史をのべる。東洋の社會思想史についてはところ/゛\參照的に述べるにとどめる。  學問は有用でなければならない。學問は眞理を研究するものであるが有用なる眞理のみが眞理の名に價する。今日日本は敗戰國として政治、經濟、社會、精神生活の各方面において悲慘なうちひしがれた状態にあるが、その廢墟の中から日本をよみがへらせる新しい革命のほのほがもえ出してゐる。日本革命の基本コースは民主々義を徹底して社會主義を實現することにある。來たりつゝある民主々義革命は自己の内部に社會主義要素を含むのである。かくて社會主義及び民主々義が現實に我々にとつての基本問題となつた。この二つの思想は人類一般に通ずる普遍的原理であるが、主として西洋において長い傳統をもち、且つ鮮明に形づくられてきたのである。日本の根本的敗因は自己内部の腐敗に存するが、又世界史的にみれば東洋の西洋に對する敗北といふ一面をも有する。我々は陰慘な復讐觀念をもつ必要もなく又もつべきでない。我々は明治初年の日本人のやうに新しく西洋文明の本質を探求する必要にせまられてゐる。これは我々が西洋に隷屬することを意味するのでなくして我々の自己改造の一つの問題としてとり上げられるのであり、ひいて日本の世界史に對する貢献を新に準備するためである。我々はこの意味で西洋の社會思想史を新たに學び直したいと思ふ。 ###(二)  歴史上の事實も思想も現代の必要に應じて新しい生命が發見せられ得る。我々は日本の民主々義の見地から、西洋の社會思想の根本的部分を檢討し、それによつて我々自身の生命と行動力を益し得るのである。  社會思想とは社會改革に關する思想である。社會の成立、構造、發展等に關する單なる客觀的分析ではない。(さうしたものは社會學である)。社會思想とは社會がいかなる新しい構成を有せねばならぬかといふ實踐的課題とその理想をふくんでゐる。むしろその理想の提出である。思想は純粹の學問的認識といふよりも、むしろ行動、獲得、創造等の意欲によつて衝動され形成されるものである。  學問においても思想においても、もつとも貴ぶべきは獨創である。人類の知識は石器時代以來の長い生活鬪爭の過程において孜々としてつみ上げられたものである。一の知識は前の知識と内的連關を有する。全然新しいものが突然あらはれてくるといふことはない。獨創とは過去の知識の傳統にたちつつ、しかもいまだかつて存しなかつた新しい精神を形成し提出し附け加へることを意味する。過去の思想になにら根本的な改變を加へることなしに叙述するものは公式主義者であり偶象拜跪者であり、眞の思想家の名に價しない。我々日本人は行動力にすぐれ、その世界觀も行爲主義的であるが、思索の力は貧弱である。そのため外國學説の盲目的追從に陷りやすい。社會運動の領域では現にマルクス主義の公式的信奉が行はれてゐるが、他の學問や藝術の領域でもその弊が多い。私は西洋社會思想史において一時代を劃した獨創的思想家の思想を研究對象とする。それによつていかに獨創の貴いかを學びたい。  社會思想家は單なる學者ではない。彼の住む現實世界に對し憤怒するところあり、憂うるところあつて、全人類を苦痛と悲哀より脱せしむる位の意氣込を以て、これに相應する新しい社會を構想し、獨自の思想體系をたてるのである。(史記に易を作るものはそれ憂患あるものかと言つてゐるのは此意味である)。 ###(三)  社會苦は歴史的發生物であつて人間固有の現象ではない。私有財産と階級分裂が生じて以來人間の社會的苦痛がはじまつた。人間は矛盾の中に進歩を經驗した。矛盾の過程を通ずる進歩は強力であり、苦痛は人間を訓練し、組織化し、高める作用をする。私有財産と階級分裂とは人間社會の物質的生産力と精神的自由の不足のために人類が經過しなければならなかつた過程である。しかしその過程において發生した墮落、罪惡、搾取、慘忍、盜奪、侵略戰爭等は人間のくらい一面となつた。社會思想家はこれらの社會的矛盾を生み出す社會に反逆し、これらの矛盾を超えこれを克服した新しい自由な社會を憧憬し、これに思想的骨組を與へ、かつこれを行動を通じて實現せんとする意欲に驅りたてられるものである。人間存在の極限價値は自由といふことである。人間が自然及び人間相互間の不合理なる制約から解放されて、自己の内面的人格を充分に發展し得る自由人となるところに歴史の眞の内容がある。古來の社會思想家の志すところはかゝる自由人の形成に外ならなかつた。 ###(四)  我々は現在資本主義社會に住んでゐる。資本主義社會は封建主義社會に比すれば偉大な進歩であつたが、その歴史的使命はやうやく終りに近づき、資本主義固有の矛盾たる恐慌、失業、社會的不安、戰爭の危險等は尖鋭化してゐる。資本主義の次に社會主義のあらはれることは世界史的な發展順序である。社會主義は資本主義社會における資本及び勞働の階級對立の過程において具體化した思想であるが、しかし階級對立と私有財産より生ずる害惡を除去し、萬人協働の善美なる社會をたたかひとらうとする社會思想は古來より存してゐる。故に社會主義はかゝる思想の現代的歸結であるといふことができる。この意味において古來の社會思想を歴史の流れに沿ふて觀察することはより深く社會主義を理解する所以である。民主々義は個性の開展を基本課題とするものであつて、特に封建主義に對する鬪爭として近代的成熟をかち得たのであつて、人間生活の貴重な普遍的原理である。民主々義によつて基礎づけられざる社會主義はいわゆる全體主義的誤謬からまぬかれ得ない。故に民主々義思想の展開も社會思想史の重要部面として觀察されねばならぬ。 ###(五)  社會思想は各時代の特殊的な環境の中から生れ、時代的具體性を有してゐるが、眞に價値ある社會思想は自己の時代にねざした特長を有しつつしかも時代を超えた人類的なものを含み、あらゆる時代はそれから新鮮な生命を汲みとり得るものである。  眞の社會思想家は宇宙と人生、もしくは自然と歴史について統一的な世界觀ないし哲學をもつものである。たとへはプラトンが觀念論哲學に立ち、マルクスが唯物史觀に立つやうに。かやうな世界觀ないし哲學によつて基礎づけられない社會思想は大した價値がない。だから社會思想家の思想内容を檢討する際にまづその世界觀ないし哲學的基礎をとりあげてみぬばならぬ。 ###(六)  社會思想更の觀察方法には二つある。第一は各時代の環境を中心とし、その所産としての社會思想をこれと結びつけつつ觀察する方法である。第二は有力な思想家を標本的にとつて研究し各時代をその背景として述べる方法である。第一のものは時代を中心とし、第二のものは人物を中心とするものである。私は兩者を併用して適當にのべてゆくつもりである。  西洋文明の源泉はギリシヤ文明及びキリスト教である。この兩者を研究せずして現代西洋文明を理解することはできない。故に私はまづギリシヤ精神の二大哲人プラトン及びアリストテレス、並にイエス・キリストの社會思想を檢討する。しかし主要の研究範圍はもちろん近代だ。近代ヨウロッパの思想史には三つの大きな時代がある。第一は十五世紀を盛期とするイタリー文藝復興期である。この時期から鮮明となつたヒユーマニズムの思想は現代に至るまで人間精神の主流を成している。第二はフランス革命に至るまでの啓蒙思潮期である。特にこの期間に發展した社會契約説は資本主義の思想的促進條件であり。又近代民主々義の源泉たるものである。第三は十九世紀以來の資本主義展開時代以後である。資本と勞働との對立がこの時期の基本問題である。資本主義の不正や矛盾に抗して勞働階級を主體とする社會革命の主張者たる初期の英佛の空想的社會主義者、獨逸における科學的社會主義の建設者マルクス、二十世紀におけるマルクス主義の發展者レーニン等が研究されねばならぬ。又ゴットウイン、トルストイ、ラスキン等の特異なる人道主義的思想家も觀察に値する。 [#改ページ] ##第一章 プラトンの理想國 ###一、ギリシヤ精神  ギリシヤ文明には生々とした人間性の躍動が感ぜられる。古代の東方文明諸國(エヂプト、バビロン、ペルシア其他)では人間は自然の壓迫の下にあるか、もしくは自然との無批判的な統一の中にあつて、人間精神は獨自的存在となつてをらず、神秘主義の蒙昧は精神世界をおほうてをり、政治上においては人間の個性的自由の發展の餘地のない專制的君主政治が支配してゐる。これに反してギリシアにおいてはじめて人間が知識を知識自身のために愛し、事物をありのままに眺め、その本質に肉迫することがはじまつた。人間的な思惟力や創造力が自由に活動してゐる。ギリシヤ人は理性に絶對の信をおいた。「汝自身を知れ」といふかれらの言葉にもあらはれてゐるやうに、自己の本質と自己の行爲を理性の鏡にかけて判斷した。事物を幻影的でなしに、ありのままに見ようとする知的衝動がはじめて人類史上に出現した。ギリシヤでは國家と社會とが分裂してゐない。その都市國家は強制によつてではなく各人の獨立した意志の結合から生れた自治的社會といふ性質をもつていた。個人は國家に自由な精神をもつて喜んで献身し、公共善といふことは個人の生活と自然的に一致した。法律は獨裁者として機能するのでなく理性の作用によつて自由人が自分自身に加へる道徳的強制といふ意味をもつた。自由なる個人、自由なる思想、かやうな近代社會の政治原則の原型はまづギリシヤにおいてあらはれたといつてよい。  藝術への愛は理性と對立するものでなく、むしろ相互に内面的連關をもつてギリシヤ人の人間的活動を飾るものであつた。  ギリシヤ燦然たる歴史はごく短期間であつたが、しかも短い期間に創造された文化的業績は青年のような力をもつて後世の人間に迫りその青年的復活の力となる。  紀元前六世紀頃に極盛に達したギリシヤはその後の一二世紀間において社會生活の内面的頽廢、特に個人主義の勃興、ペロポンネソス戰爭以後における政治的動亂と統一の崩壞等によつてその命をちぢめた。このギリシヤの運命の傾きかゝつた時代に、哲學者プラトン、アリストテレス、政論家イソクラテス、デモステネス、藝術家ソフォクレス等の偉大な人物が輩出した。それらはギリシヤの衰運を救ふことはできなかつたがギリシヤ精神の精華として、後世に生々とした力をつたへる。 ###二、プラトン  プラトン(四二七又は四二九―三四七B.C.)はアテネの貴族の子に生れた。幼年より當時の學藝を深く學んだが二十歳より八年間ソクラテスに師事した。ソクラテスが毒杯をあほいで死んだ後にエヂプト、シシリヤ、イタリー等を旅行して修學した。三八七年にアテネに歸り、郊外にアカデミヤを作つて講義し、四十年間それをつゞけた。ギリシヤ最大の學校であつた。彼は二度ほどシシリヤの國政に參加して自己の理想を實現せんとして失敗したことがある。丁度中國の孔子が亂世に自己の志を行ふために名主を求めて天下を周遊して失敗し、衰齡六十八歳になつて故郷魯に歸り子弟を集めて教育に從事したやうな衆生救濟の悲願がプラトンにもあつたのである。  社會思想家には貴族的傾向のものと平民的傾向のものとがある。プラトンは前者に屬する。彼は藝術的天才の豐かな哲人であつた。彼は偉大な觀念論者であつた。プラトンは彼の時代や社會的環境に對する強い不滿やはげしい憤怒や深い憂愁をもつた。紀元前四世紀になつてからギリシヤ世界の腐敗が増大した。黨利私慾を追ふ政治屋の跋扈があり、精神世界では快樂主義や個人的幸福に逃避する世界主義者がある。特にペロポンネソス戰爭によるアテネの沒落、社會的には貧富の衝突、無定見な民衆政治、おそるべき道徳的危機、かやうなものがプラトン哲學を生み出した背後の條件である。彼の哲學と社會觀とはかゝる時代的環境の所産ではあるが、彼は古今稀な獨創的天才であつたが故に、彼の思想は一切の時と所を貫き、且つそれ/゛\の時と所に新鮮な生命を附與する力がある。 ###三、世界の本質(イデア論)  プラトン哲學は理想主義的、目的論的、彼岸的、超越的である。人間の現實に憤怒する彼は現象の奧なる眞實在を求めこれにイデア界と名づけた。  感覺世界は絶へざる流動と變化のなかにある。それは低い、外面的な世界である。この感覺世界の彼方にあらゆる實在の根本實在がある。感覺世界の個々物は生滅する假現にすぎぬ。超感覺的な眞實在たるイデアは永遠の若さをもつ。このイデア界こそ人間の魂の眞の故郷である。  外面的感覺的な俗見には眞の智慧はない。哲學者のみがこの俗見から脱し、理性によつて眞實在を把握する。眞實在は人間の憶見や願望や好惡によつて左右せられない。それは自己自身によつて妥當する。感覺世界はこの賞實在の影の世界にほかならぬ。これに近づくのは粗雜な感覺からでなしに、哲人的な理性的認識である。哲學者のみが生滅的な欲情世界から超越して、永遠不變の美しい眞實在の觀想を樂しむのだとせられる。  最高のイデアは善であり、それは萬物の究極原因であるとなされる。プラトン哲學は單なる理論でなくして、人間が欲情と假現を超脱して、覺醒と眞理へ命懸けに向上する道徳的要求であり、單にできあがつたものを認識するのでなく、理性を通じて眞實在に近づき、それを通じて自己を不生不滅にするところの大なる精神的創造である。人間の靈魂はつねに眞實在たるイデアを憧憬するが、肉體に宿つた靈魂は不完全なイデアの影像をみてイデアの世界を回想しうるのみである。この状態がエロス(愛)である。學問はエロスの發現に外ならない。學問のみが永遠にして眞實なるイデアと合一させる。プラトンはかやうに生滅する現實世界と、その奧なる不生不滅の眞實性を峻別し、前者を輕蔑し、後者に激しい思慕を寄せた。もしプラトンがそれだけにとどまるならば彼は單なる遁世者にすぎない。しかし彼は人間に對する激しい愛にゆり動かされる。善がかれにとつて最高の歡喜であることは、惡を堪ふるべからさる苦痛とする。かれは激烈なる惡の憎惡者であり、その克服のための熱情的な鬪士として登場する。低い世界を高い世界に高めること、人間を永遠の實在と結ぶこと、世界を美化し淨化すること、これがかれの願であり、理想國をしるす國家篇はその表現である。 ###四、理想國の構成  プラトンはその哲學的著作をすべて對話のかたちでしるしてゐる。かれは藝術的天分が豐かであつたからその對話は生き/\した藝術的表現をもつてゐる。かれが理想國の設計を記した國家篇はその壯年期の著作である。老年期になつてから法律篇を著作したが、これにもかれの國家論がある。國家篇にはかれの正義論があり、教育論があり、イデア論があり、これらの基礎に立つて國家論が展開する。この篇はプラトン哲學の全貌を示すと云つてよい。それは純粹の理想主義といはゞ貴族的社會主義によつて貫かれてゐる。法律篇は國家篇にあらはれた徹底的な共産主義を緩和してをり、國家建設の指針としての法制を考案してゐる。そのために往々にしてプラトンは老年期になつてその理想國に對する熱情を失つて實際的妥協家になつたのだといふ批評をする人があるがそれは當つてゐない。後者は前者の普遍に向つて特殊を定立したもの、現實に媒介せられた具體的把握とみるべきで、妥協による低下でなく、むしろ歴史的限定によつて質的に高められた實踐的規定と解すべきである。 ####1、正義の主體としての國家  プラトンの國家論は倫理の根本問題たる正義の本質と不可分に關係せしめられてゐる。正義は國家においてのみ實現されるといふ見解が貫いてゐる。眞に富んだ國とは金銀の富有なることでなく、徳と智の富有なる國家である、正義は個々の國體よりも國家においてよりよく實現される、國家の目的は戰爭でなくて平和であるといふのがプラトンの根本觀念である。彼は國家の起源は物質的窮乏を免れるために人間が結合したものだといふ實證的觀察をしたり、各人が共同の約束によつて國家を作つたといふ社會契約説のやうな叙述をしてゐるが、これはかれの國家論の根本部分ではない。彼は現在の國家は一も哲學的價値を有するものはないと斷定し、それらに否定的態度をとつてゐる。とくに民衆政治と專制政治とにはげしい嫌惡をしめす。  理想國においては三つの階級がある。第一は政治を支配する哲學者の階級、第二は國土を防衞する守備者の階級、第三は商業や生産に從事する商人、工匠、農民、奴隷等である。理想國においては女子も子供も、一切の教育も、軍事も、平和な業務もすべて公共的なものである。私有觀念をゆるさない。 ####2、哲人の支配  プラトンは哲學者が王になるか、又は世界の王たちが哲學の力と精神をもち、政治的偉大と叡智とが一つに合致するまでは人類は眞の平和を有しないと考へる。しからば哲學者とは誰か。プラトンはその貴族主義から、人間における本質的不平等をみとめる。人間には本來的に賢者と愚者がある。ある者は哲學者であるやうに生れ、ある者は哲學者でないやうに生れついてをり、社會は少數の指導者とこれに追隨する大衆から成立する。  哲學者とは眞理の愛好者であり、根本的實在の影を把握し得る人である。多數の美しいものを見るが絶對美を見ることの出來ない人達、又絶對への道を指ししめす指導者にもしたがふことのできない人達、多くの個々の正しいものはみるが絶對正義をみることの出來ない人達、かやうな人達は意見はもつが智識はもたない人達である。絶對永遠不變のものをみる人は知る人である。哲學者とは後者である。哲學者を見分けるのは彼が學問の中に快樂をもつか否かである。かゝる人のみが眞理、正義、勇氣、節制の友であることができる。哲學者は事物の對象性にとどまつてをらず、その魂の中の親和力をもつて、あらゆる存在に近づき、これと合體し得る人達である。かれは多數と多樣のものの領域をさ迷ふことなく、永遠不變なものをとらへることができる。いかなる國家といへども、眞實在を把握する哲人によつて形成されねば幸福でありえない。惡は哲學者の支配なくしてはやみ得ない。哲學者は快樂と苦痛の試練によつて鍛へられ、混亂と危險のいかなる場合にも愛國心を失ふことがない。智識とは結局は善の智識である。哲人はかゝる智識の所有者である。  哲人の最大の快樂は智識によつて眞實在を觀想することである。彼は好んで政治をするのではない。政治的野心の生活を輕蔑してゐるのは哲人の外にない。彼はむしろいや/\ながら統治者の地位につくのである。彼は可見世界の大衆を救濟するためにのみ政治の地位につくのである。可見世界の大衆は光りの方に目を向けながらも地下の洞窟に住んでゐる人間達である。彼等は足と首とを鎖でつながれながらはるかに燃ゆる火を望む者で、彼等は唯眞實在の影をみることができるだけである。この洞窟の囚人の中から哲學者の資質を有する者がえらび出されて、絶壁や嶮岨な坂をよぢのぼり哲學者となるやうに教育される。善のイデアは努力によつてのみ得ることが出來る。彼等は善のイデアに到達するまでのぼりつゞけねばならない。  しかし天上にのぼつた哲學者は上方の世界にとどまつてゐることをゆるされない。彼等は洞窟の囚人の中に下つて彼等と勞働と名譽とを分ち、苦痛を共にし、幸福が國家全體にゆきわたるやうに努力する義務を負ふ。プラトンは國家内の一階級が他の階級より幸福であつてならないとする。  哲人はいや/\ながら政治するものである。最も支配することを好まぬ者が政治する國家が最も好い最も早く治まる國家である。十五年間の哲學の教養をうけて哲學者となつた者が順番が來れば、一般の幸福のために活動する。彼は偉業としてでなく、單に義務として政治を行ひ、そして自分がなされたと同樣に他の人々を哲學者として教育し、これを國家の監督者たる位置にのこせば、そこで彼はその任務を終つて天福の島に去つて住むこととなる。  最上の人間がその國家でうける待遇はどいたましいものはない。かれらは常に少數であり常に非難される、とプラトンは考へる。しかしこの苦痛を忍ぶのはかれの義務である。哲人の支配する理想國においてのみ萬人の幸福が確保されるとするのである。かくてプラトンのいはゆる哲人的統治者はあたかもニイチエの超人のごとき貴族主義者であるのだが、後者のような個人主義ではなく、滿心これ愛他的である。 ####3、守備者  プラトンは理想國では哲學者とならんで守備者とよばれる戰鬪階級が支配者の地位に就くのだとする。プラトンは平和主義者で戰爭を否定するが、しかし外敵から國土を守り、國内の市民の間に平和を保ち、他人に我々を害する力や意志をもたしめないためには、一切を自國民に捧げる守備者といふ階級が必要だとかんがへる。ギリシア諸國間の衝突よりも非ギリシア的なマケドニアやカルタゴの侵入の危險がかれの念頭にあつたのであらう。ギリシア人が相戰ふとき無秩序と不和がギリシアを襲ふ。いかなるギリシア人をも奴隷にしてはならぬ。野蠻人に對して全ギリシアが大同團結せよとプラトンは要求する。  プラトンは守備者の階級を理想的に描き出し、それらの間に嚴格な共産主義の行はれることを要求する。守備者は肉體的に強健で、最も勇敢、最も賢く、哲學、敏捷、力、節制、正義、自己超克の徳の持主で、外的影響によつて惑はされたり亂されたりすることがない。かれは國家に幸福と秩序を與へる。守備者の幸福は國家を全體的に幸福ならしめることにのみ存する。國家が秩序のなかに成長し、各階級が自然がかれらに割りあてた幸福を得るようになることを、最大の願とするのは守備者である。  プラトンには、業は少數者にのみあるといふ貴族主義的思想がある。守備者たりうるもの、したがつて守備者たるものは少數であるとする。叡智とよばれる知識をもつている階層は必然に全階級中の最小部分で、ある都市國家が勇敢だとよばれるのはその國家のある部分の勇敢であるためである。守備者の子が劣等であれば下に落し、下層階級の子も優秀であれば守備者の位に上げる。勝手に自分の地位を去り又は武器を捨てる守備者は職人又は農夫の地位に下げる。 ####4、共產主義  プラトンが明白にかつ徹底的に共産主義組織を要求しているのは守備者の階級についてである。守備者は利己主義者であつてならぬ。かれは自己の一切を國家にさゝげ、寡欲にして自己を峻厳に律し、快樂を捨て、市民の全體的幸福に一意努力する。プラトンは私有財産を萬惡の根源だとかんがへる。文化をわざわいする惡の根源は市民を貧富に分裂せしむることである。國家は萬人の幸福を眼中におく。國家はその財産を國家全體の財産となし、萬人の幸福のために使用せねばならない。このことを身を以て示すのが守備者であるとする。  守備者にとつて金銀をはじめすべて私物といふものは存しない。その生活は完全に公共にさゝげられる。かれらは絶對に必要以上の物を自己の所有としてならぬ。その家はつねに仲間に向つて公開され、私有の家といふものがない。彼等は市民から定額の、その年のぎり/\の支出をうけるだけで滿足する。金屬の金銀は神聖ならざる行爲の源であり、かれらは金銀の器から酒を飮んでもならぬが、かれらは神から眞の金銀をうけるのである。萬一かれらが自己私有の家や土地や金銀をもつならば、かれらは守備者でなくなり、家主となり、農夫となり、市民の保護者でなくむしろその敵となり暴君となるだらう。憎んだり憎まれたり陰謀したりされたりして、外敵よりも國内の敵との鬪爭によつて恐怖をまきちらし、國家を破滅せしめるに至る。プラトンはギリシア目前の國内鬪爭の状態に憤りを感じつつ守備者をかように構想しているのである。  守備者は食物以外の支拂をうけない。快樂に耽ることができない。しかもかれらはそのまゝで人間中で最も幸福である。少數の市民の幸福でなく全體としての幸福な國家を作りうるところに守備者の幸福がある。守備者はあらゆる物をもつことができるのにそれをしない。全體の最大の幸福を目的として國家を形成することがその義務だからである。財産の共有がかれらを眞の守備者たらしめる。かれら自身のものとよびうるのは自分の人格だけである。かれらは金錢や親類關係からおこるあらゆる喧嘩から解放される。守備者は互に相手を守ることを貴い正しいこととするのだから世上普通の爭ひのいりこむ餘地がない。  國家と個人との一致はギリシア社會本來の特質であつたし、プラトンは熱烈にそれを防衞する。市民中の何人かゞなにか善か惡か經驗するときには、全國家はその人の事件を國家自身のものとなし、その人と共に喜ぶか悲しむかする。守備者は他の守備者を他人として語つたり考へたりしない。かれらは、「私のもの」と共々によぶ同一物に共通の利益をもち、共通の苦痛と快樂の感情をもつのだとせられる。  プラトンは法律篇においても共産主義の思想を捨てゝいない。土地は國有であり、共同耕作はしないが生産物はすべて公平に分配する。動産の所有高を限定し一定制限以上のものは國家に交付するとせられている。社會の共産主義的編制はプラトンの一生をつらぬく理念であつた。 ####5、婦人及び子供の共有  プラトンはその理想國の構想のなかで哲學者及び守備者については精細な姿を描きだしているが、その他の階級(商人、工匠、農夫等)についてはほとんど具體的に述べるところなく、これを凡俗にして精神的に低度なるものと見なしている。奴隷がなにら同情的にとり扱はれていないのはもちろんである。これはプラトンの精神貴族的傾向とともにギリシアの貴族主義一般の表示でもある。しかしそれかといつてプラトンに人類愛がなかつたのでない。むしろかれの内部に熱烈な人類愛の燃えていたことは、洞窟の囚人――一般人間――の救濟を哲學者の義務たらしめていることからもわかる。  プラトンが私慾を超克した共産主義組織を熱心に主張しているのは守備者についてである。それは婦人及び子供の共有といふ設想にまで發展している。「わが守備者の妻及び子供は共有さるべきである、親は子を知らず、子供はその兩親を知らない」といふ原則を立てる。これは決して婦人を低く評價することを意味しない。むしろプラトンは婦人の價値や能力を高く評價している。男女は本質的に平等で自然の能力は兩者同一であるといふ基本思想に立つ。婦人の受くべき教育も職業も同一でなければならぬ。男子を良き守備者たらしめるのと同じ教育は婦人をも良き守備者たらしめる。國家の男女ができるだけ良くなるといふこと以上に國家を利するものはない。  守備者の婦人はできるだけ男子と似た性質をもつてをらねばならぬ。彼等は共同の家に住み共同の食事をなし、特別に彼の物、彼女の物といふものはない。かれらは共に在り、共に育てられ、共に活動する。  結婚は最高度まで神聖でなければならぬ。最も有利なことが最も神聖である。最も有利な結婚は最上のもののみを生殖させるにある。兩性のうちの最上の者は最上の者とできるだけ屢々交殖し、劣等者は劣等者とできるだけ稀に交殖せしむべきであり、最も勇敢なる青年は名譽を與へられるだけでなく、若い美しい婦人と交殖する機會を多く與へられるといふのである。勇敢な人間は他人よりも多數の婦人と接しうるものとする。婦人は二十四歳で子を生みはじめ四十歳まで生む。男子は二十五歳から四十五歳まで子を生ませる。生れた子供は親からはなれて國家の費用で哺育所で育てられる。どの母親も自分の子を見分けることができないようにする。子供たちはすべて兄弟姉妹である。すべての成年の守備者を父親又は母親とよび、又、後者は前者を息子又は娘とよぶようにする。かような妻及び子の共有は國家の最大の利益の源だといふのである。  プラトンはかようにありきたりの結婚の廢止を主張したが、それは倫理的正義觀から基礎づけられてをり、最上の質をもつた人間をもつて國家を構成するといふ考へに立つているのである。 ####6、民衆政治への批評  プラトンは政治形態として君主政治又は貴族政治を肯定するが、專制政治を最も憎惡すると共に民衆政治にも少からず嫌惡を表している。これはアテネの民衆政治の墮落にかれの感じた悲しみと憤りの表現である。國家篇には民衆政治がひどくこきおろされている。  彼はつぎのごとくいふ。民衆政治のもとでは自由が横溢している結果として、あらゆる制度が揃つてをり、色々の花で飾られた晴れ着のように見かけだけは非常に美しい。女子供が色彩の雜多を何よりも美しいとかんがへるやうにかういふ國家を最上と思ふ人がある。かういふ國家では、たとへ能力があつても支配する必要もないし支配される必要もない。有爲にして有徳な政治家を作るために何等の手段も講じない。大衆の友たることを告白する人には誰れでも名譽を與へられる。外見は立派だが内容は雜多と混亂である。かれらは慾望のままに日を送る。思ひつくままを言つたり行つたりする。法則も秩序もない混亂した生活が喜び、幸福、自由、平等と呼ばれている。民衆政治における善であるところの自由がやがて民衆政治を顚覆することとなる。強い自由の酒を飮みすぎると、先生が生徒の機嫌をとり、生徒は先生を輕蔑してこれを監督するやうになる。民衆政治の下では家畜までが他の國にみられない自由をもつてゐる。しかし何事によらず過剩といふことはいつでも反對の方向に反動をおこすもので、これは自然界にもみられるが特に政體において然りで、自由が増大して極限に達すると壓制と奴隷の極端の形式たる獨裁者を生み出すやうになる。惡煽動者が民衆の保護者と名乘つて暴民を率ひて反對者を虐殺し、自己の身邊を守る爲に民衆を警戒し強壓を行ふやうになる。民衆は煙を逃れて火に卷かれることとなる。  以上のプラトンの民衆政治への呪詛はすこぶる痛烈であるが、そこには多數者を輕蔑する貴族主があるとともに民衆政治の陷りうる危險の鋭い描寫もある。 ####7、プラトンの理想國の批判  共産主義國家の思想は全然プラトン一人の考へ出したものでなく、ソクラテス以前より部分的にギリシアに存在してゐたのであるが(たとへば劇作者アリストファネスは喜劇「婦人議會」を作り共産主義思想を嘲笑してゐる)しかしこれに深い哲學的根據を與へ壯大な構想をしたのはプラトンである。たとへ觀念論に立脚してゐるとはいへ、人間の存在とその政治形式に自覺を與へ、雜多な過渡的現象を貫く絶對的なものを示した功績は爭はれない。我々は次の批判をすることができる。  第一にプラトンの哲人王者の思想は貴族的であり、少數天才主義であり、民主的でなく又歴史的でもない。專制主義や絶對主義ではないが、歴史の基本要素が民衆であることは無視されてゐる。人性の自然は社會の民主的形成へ向ふのであるが、それはかれの貴族主義からは理解せられない。  第二にそれは全體主義的な統制主義である。人間個性の測り知られざる創造性を生かすことが忘れられてゐる。普遍的原理の提出であつても、それは具體的な個物によつて媒介せられざる抽象である。  第三にプラトンの共産主義は生産者本位でなく、むしろ消費者本位の共産主義であり、勞働そのものに根ざす社會改革の思想でない。私有財産に對する深刻な批判はあるが、勞働の價値は正當に評價されてゐない。だから近世社會主義とはこの點で根本的差違がある。(トーマス、モーアのユートピアはプラトンの理想國を手本としたものであるが、プラトンと異り、勞働を社會の基礎と見なしてをり、その點でそれは全く近世的である。)  第四にプラトンの理想國は歴史の發展の必然性によつて基礎づけられてゐるのでなく、觀念的に構想されたものである。  第五に婦人及び子供の共有の思想は必ずしも婦人を侮蔑するものでなく、婦人の方からいへば男子の共有といふことにもなる。これらは少しも亂倫を意味しないが、全體主義による人格の無視ではある。(今次大戰中、ナチスは健康なドイツ青年男女にこのプラトン主義を部分的に實行した。)  プラトンの共産主義思想はアテネの現實のなかから生れた。しかしそれは觀念的飛躍であつた故に歴史上の實踐運動の方針とならなかつた。とはいへ、哲人が現世の政治に嫌でもたづさはらねばならぬとすることや、人間の政治生活を倫理的に基礎づけたことや、社會革命の目標として共産主義をあきらかな形で提出した點において、後人に長く刺戟を與へる。プラトンの思想の内面には激しい實踐衝動や人類愛が燃えてゐた。その理想國の設計は單なる有閑學者の書齋的空想ではない。社會主義といふ言葉をひろい意味にとれば、西洋の社會主義思想の正統的な源泉はプラトンの理想國だといはねばならない。アリストテレスの思想が反社會主義思想の源泉であるのと對比せられうる。 [#改ページ] ##附章 古代中國政治哲學における理想國及び社會主義思想 理想國の設想や社會主義思想は古代の東洋世界においても缺けていたわけでない。古代中國においてそのかゞやかしい思想的産物が見られる。その二三について略説しておかう。 ###(一) 周末の思想的奔流  古代中國では周の威烈王の二十三年(西紀前四〇二)から秦始皇帝の二十六年(西紀前二二一)の統一國家の成立までを戰國時代といふ。此時代には土地私有の成立、大治水工事、商業の繁榮、大都市の生長、莫大な人口増加等、經濟的進夢が目ざましく、社會的には士大夫と民大衆との階級對立が鮮明となり、小國滅亡して秦楚秦楚燕齊趙魏韓の七國のみとなり、國家の階級制が露骨となり、公權力の作用が刻薄となり、七國互に死力をつくして競爭し、政治的にも社會的にも活氣横溢した。それ以前の春秋時代における、宗姓氏族をやかましくいふ風や、禮とか信とかを貴んだ風や、君子勤禮、小人勤力などいふ小ヂンマリした風が地を拂つてなくなり、強者が讃美され、強者たるためには慘忍も詐術も詭辯も肯定された。かやうな社會的條件は中國人の知的能力を最大限に解放して哲學、政治學、道徳哲學、社會哲學、人性論、論理學、戰爭論などのあらゆる方面にわたつて多種多樣の主張が對立し、光彩に富んだ多數の不朽の古典が作り出された。人民が窮乏したり、隱遁者が出たり、個人主義や功利主義や快樂主義の跋扈したことは恰もギリシア末期とよく似ている。  この時世を深慨する各流派の思想家のなかゝらいろ/\のユートピア的設想や社會主義的思想が生れた。大別して三つある。第一は儒教における國家社會主義的傾向である。第二は老子のやうに小國寡民の理想をのべたり莊子のやうに華胥國なる無何有郷を文學的に空想したりするアナキスト的傾向である。第三は愛他的見地に立つて社會主義を主張する墨子の流派である。第一及び第三のものについて一言する。 ###(二) 大同小康の説  一體に儒教には國家社會主義的特徴があつて、土地の均分、水利の國家的統制、勞働の義務、荒政、救恤、老者の優待等が説かれてをり、大學、孟子、禮記王制篇、同禮運篇などにそれらが見え、天下を公有物とみる思想がある。劉向の説苑に、秦始皇帝が賢者を擇んで天下を讓らんと考へたといふ説話を記しているのも同じ思想傾向の殘りである。  禮記禮運篇の大同小康の説は一種の共産主義的ユートピアを描くものである。禮運篇は道家の説を雜へ純儒の説に非ずといはれてをり、同篇が人間を主情的に解して、喜怒哀懼愛惡欲の七情や飮食男女の大欲を數へ「人は天地の心なり、五行の端なり、味を食ひ、聲を分ち、色を被りて生くる者なり」と言つたり、禮の本質を「天の道」であるとすると共に「人の情なり」と解し、禮の起源を飮食と祭祀に求めることなど、きはめて特異の一篇である。  大同小康の説とは、孔子があるとき子游に語つて、三代の世は大同の世であつて、天下を公となし、賢者を選擧して王に立て、人は獨り其親だけを親とせず、其子だけを子とせず、老者に終る所あらしめ、壯者は勞働し、女子は婚期を失することなく、孤獨者は天下から養はれ、貨は地に棄つるを惡むも敢て之を私藏せず、勞働せざるを惡むも勞働は己れのためにするものにあらず、此故に謀はおこらず、盜賊もなかつた、これを大同といふ。然るに三代の世を過ぎて大道隱れ、天下を家とするものができ、各々其親を親とし、其子を子とし、貨力は己れのためにするに至り、そこで禮儀を立てゝ紀となし、君臣父子兄弟夫婦の道徳秩序を作り、制度を設け、田里を立てゝ勇知なる者を賢とし、功は己れのためにするものとなつたから、謀がおこり、兵亂が生じた、禹湯文武成王周公の時期はそれである、しかしなほ禮儀を用ひざる者は勢位に在る者と雖も衆から捨てられた、これを小康と謂ふ、と言つたといふのを指すのである。儒教特有の尚古的なものであるが、私有財産、階級分裂、權力鬪爭を否定して萬人共働共樂の共産主義社會への憧憬であるにちがひない。この大同小康の説はかなり有名で、後世の思想にもいろ/\影響がある。 ###(三) 周禮の描く理想國  周禮は漢武帝のとき河間献王が搜得したと漢書が傳へているが、秦始皇の焚書から約百年を隔てゝ諸經のうち最も遲く發見されたことや、周泰人の著書で周禮を引用しているものの一つもないことや、漢初の學問の淵叢であつた齊魯の諸儒もこれを見た形述のないこと等からして、王莽の時に劉歆が僞作したのでないかといふ説もあるくらひだが、恐らく大膽な政治的ユートピアを述べることが時代の一風潮であつた秦漢の際に、政治學者荀子の徒が舊記舊聞を材料として大規模且つ精緻な理想國の政府構成を空想したもので、あまり流布しないうちに秦火の厄に逢ひ、したがつて知る人が少かつたのだと解するのが妥當であらう。.  周禮は一の巨大な中央集權國家を描く。そこでは天地四季に象徴して官制を天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官の六に分ち、この六官に各々六十の官職があり、したがつて總計三百六十の官職が存し、事細かにその職分が規定されている。それらの官職のつかさどるところは、單に狹義の政治だけでなく、道徳、宗教、生産、交易、家族、結婚、階級等、社會生活の全範圍に亘つてをり、そこには宗教道徳政治不可分の精神が貫いてをる。もとより周禮には歴史的事實として經驗された宗周時代の制度や春秋時代から戰國時代にかけて發達しつつあつた制度を材料としたところが少くないが、全體の構造や基本内容は作者の構想力に出た理想化された共産主義國家の見取り圖である。  周禮の内容を詳説することは多大の頁を要するから、他日公にするつもりの東洋社會思想史にゆずり、こゝではその基本思想だけをあげておく。  (1)周禮國家は徳を地上に實現するといふ儒教の大同主義的世界的道徳王國である。宗教と道徳と政治とが未分化のまゝ結合していた中國初期の國家状態は、周禮作者の熱情によつてヨリ高い統一、ヨリ美しい形態にまで高められ、周禮三百六十の官職は直接間接にすべて道徳實現の機關でないものはなく、更に多少とも宗教的空氣をおびている。  (2)政治は人民の物質的幸福と道徳的向上を主眼とする。書經や詩經にあらはれている民本的思想が具體化されている。  (3)民主々義。周禮國家は王者や三百六十の官職者が指導者として政治するのであるが、それは民衆から超越したものでなく、下からの民主々義によつて築かれる。外朝の政といふ民衆の大衆集會が制度化され、戰爭、遷都、王の選擧などはその集會の意志で決定する。  (4)土地國有。全土は國有で人民に定期的に割り當てられる。土地配分に家を標準とする制度と成年男子を標準とする制度の二種が記されている。周初の土地共有制の道徳的美化である。  (5)公共的灌漑制。中國農業の最も基本的な生産條件たる水利灌漑の方法が、國家の統制の下に非常に大規模にかつ科學的に遂行せられるといふ記載である。それは水利灌漑事業の理想化で、今日からみても不可能なほどだが、理想國にとつて缺くべからさる設想でもある。  (6)分業についての國家の役割。國家が萬民の職業を統制する。それは階級でなくて社會的勞働の合理的配分をいみする。  (7)生産についての國家の指導。農業のみならず工業についても國家が勞働分配や合理的經營について指導する。  (8)萬人勞働の義務。書經無逸篇には王者といへども勞働の義務があるといふ思想があるが、周禮では理想化された人口調査が行はれ、勞働能力あるものは何人も生産に從事する社會的義務ありとせられる。生産の場面には氏族や村落の共産主義組織が重大な役割を演ずる。  (9)交易の統制。交易は政府の統制のもとで市で行はれ、恣意的な商業利潤の獲得はゆるされない。  (10)婚姻の調節。男は三十、女は二十にして結婚する。媒氏といふ官がそれを司る。結納は純帛五兩にすぎず、又死者同士を夫婦とする迷信行爲を禁ずる。  (11)公共醫療。官設の醫者が人民の病氣を治療する。  (12)公共的調停。人民の間の爭を調停する調人といふ官がある。これは裁判官でない。  (13)荒政。凶年に際して國家が公共的救濟をする。この外に貧者の救恤や備荒設備が大規模に行はれる。  (14)村落自治。村落内部は自治がおこなはれる。祭禮、集會、若者仲間、飮酒の禮、村落員連帶責任、村落内の生産力を保持する共同努力など古代共産村落の俤を偲ばせるものがある。  (15)社會單位としての家族。家族が村落と並んで周禮國家の細胞である。すでに十人前後の小家族制になつてをるが、それは國家から遊離したものでなく、生産の單位として機能する。孝道々徳が最も貴重なものとなつている。  (16)世界帝國の設想。中國が世界の中心で、中國をとりまいて世界の人民が集中し、一大道徳帝國が地上に實現せられるといふ天下九服の思想に立つ。老子派の小國寡民といふアナキスト的設想に對立して、儒教の徒は大がかりの中央集權國家を要求し、それを世界的規模にまで擴大し、その根本任務は道徳の實現にありとする。 ###(四) 墨子の愛他的社會主義  中國の古語に「孔席不暖、墨突不黔」といふのがある。これは孔子、墨子の二哲人がいづれも衆生救援の志に燃えて天下を奔走し、席暖るひまも自家の竈突の黒くなるひまもなかつたといふ意味である。墨子の著書は後世の儒者から異端の書として顧みられなくて、やうやく清末になつて畢玩の校訂、孫詒讓の墨子間話いで、復活の緒についた。しかし原文七十一篇のうち八篇失つただけで其他が散佚を免れたのは大幸事であつた。  史記は墨子の生時を孔子と同時代と記しているが、或は子思の時といふものあり、或は周末の人といふものあり、その生卒年代は明かでない。しかし墨子の書が戰國時代の階級對立がやうやく激烈となつた時代の産物であるのは明かであり、その思想は勞働する平民の欲求を代辨したものだ。韓非子は「世の顯學は儒墨である」といひ、莊子は墨子をほめて「天下の好である、才子なるかな」と言つてをるのをみれば、一時墨子の徒が天下に充ちたことを知りうる。墨子の徒らは粗衣粗食して自ら勞働する者が多かつた。或は俠者となり私劍を提げて不義を懲らすものもあつた。秦漢帝國以後、その社會組織が儒教の勝利を導くにつれて墨子の思想は表面上亡びてしまつたが、その思想傾向は中國民業の間につゞいていたらうとおもはれる。墨子の中心主張は兼愛と相利即ち愛他主義と功利主義とを結合するものであるが、社會的富及び勞働の共同、並に階級的壓迫の除去といふ社會主義の一般的基礎に立つているから、かれを以て中國社會主義の古代的形態とみねばならない。  墨子の主要思想は次の通りである。  (1)兼愛(即ち愛他主義)――これ墨子の中心思想で、兼愛篇に述べてある。彼は、父子、君臣、諸國相爭ふてやまざるは何故であるかと自問し、「皆相愛せざるより起る」と論斷する。天下の人が他人を愛すること其身を愛する如くであるならば不幸の者は決してあり得ない。天下の人皆相愛せざる故に強者は弱者を破り、多數は少數を動かし、富者は貧者を侮り、貴者が平民に傲り、狡猾なる者が愚鈍なる者を欺くのである。何をもつてこれに易ふべきか。墨子は「兼ねて相愛し相利する法をもつて易へる」と答へる。兼愛は徹底した愛他主義であるが相利といふ功利主義と離れないところに特色がある。孟子は「墨子兼愛、是無父也、無父無君、是禽獸地」などと口汚く罵つている於戰國時代の人民の悲慘なる流離、死沒の有樣を前にして平民の哲學者墨子が大情熱をもつて天下の人に告げた愛他主義の原則は支配階級の哲學者孟子の理解しえなかつたところである。  (2)天志(宇宙意志としての愛)――墨子の情熱は、かれを驅つて、愛がむしろ一切實在の根底であるかのごとき觀念にまで昂揚せしめた。天志篇や法儀篇には、兼愛こそ天志即ち宇宙の根本意志であると力説してある。治法は天を法とすべきである。天の欲する所をなし、その欲せざる所をなさゞれば、人間社會は繁榮する。天は何を欲し何を欲せざるか。墨子は「天は必ず人の相愛し相利するを欲して、人の相惡み相賊するを欲しない」と斷定する。天の欲する所をなせば天も必ず我が欲する所をしてくれる。天意に順ふ政治は義政であり、それに反くものは力政である。義政とは大國が小國を攻めず、大家が小家を奪はず、強者が弱者を劫かさず、貴族が平民に傲らず、富者が貧者を侮らざることで、力政はその反對であると墨子は規定する。  (3)賢者の政治――尚賢尚同二篇には墨子の政治方式論や政治的ユートピヤが述べてある。尚同篇にはホッブス流の社會契約思想がある。古、民始めて生じ未だ刑政なかりし時、人毎に仁義を異にしたので、天下の賢なるものを選んで天子としたのであるが、一旦天子となつたものは天下の模範であり、天子の任務は天下の義を一にするもので、それは天に則り愛を中心とするものであると論ずる。墨子は尚賢篇に、力ある者は疾く以て人を助け、財ある者は勉めて人に分ち、道ある者は勸めて人を教へよ、かくすれば飢者は食を得、寡者は衣を得、亂者は治を得、人々が生々に安んずると言つている。こゝに「力ある者は人を助け、財ある者は人に分つ」とあるのは、勞働及び富の共同を意味し、墨子の社會主義思想の斷片的表現である。兼愛篇には文王の治を回顧するに托して、その理想社會を描いてをり、多數者が鰥寡を侮らず、勞位ある者が農民の家畜や農作物を奪はず、老いて子なき者も終る所があり、孤兒も生長することができるところの兼愛相利の世こそ天下の治者であるとなしている。  (4)世界主義――法儀篇には「天下、大小の國となく皆天の色なり、人、幼長貴賤となく皆天の臣なり」の語がある。これは徹底した平等主義であり、世界を家とし、全人類を同胞とみる世界主義であつて、國家と家族とを最も中樞的な社會形式とみる儒教の思想と相去ること遠いのである。  (5)非戰論――非戰論は兼愛論と共に墨子の主要思想を成す。非攻篇にこれを述べてある。戰爭のために人民の苦しむこと言語に絶するが、何故に戰爭ありやといふに、それは勝利者の名聲と土地人口を貧る利慾からである。大國勝つために小國の滅亡數へ難く、而も大國も利に耽つて亡亂する。禹が有苗を征し武王が紂を伐つたのは攻にあらずして誅であるが、今の諸侯は私利のために無罪の國を攻伐する。天下に仁義を行はんとする者は非戰非攻を原則とせねばならない。この墨子の非戰論は單なる平和主義的思辯でなく、力のみが肯定せられた七國競爭の戰國時代にこれを提唱した創意と大膽とは平民の衷心の欲求を代表するものであつた。  (6)儒教的士大夫道徳への嫌惡――墨子は平民の代表者であるから士大夫に對して本能的嫌惡をもつてをり、儒者をその代表者とみてこれを攻撃し、薄葬を主張し、音樂政治に反對し、宿命論を攻撃し、理論よりも實行を重んずるのであるから、儒教の徒と衝突せざるを得ない。墨子は儒家の厚葬久喪の反人間性と不經濟を攻撃し、衣三領、棺三寸、以て肉骸を朽ちしめるに足り、掘穴は深さ泉に達せず臭氣發洩せざればよいとする。又儒家が結婚に際し新夫が妻を祝迎し婚禮を祭祀の如く仰々しく行ふことを嘲罵する。墨子は儒家の尚古主義を攻撃し、儒家は「君子は述べて作らず」と言ふが、しかし彼等の祖述するものは、かつて古に作られたものである、しからば古にかつて作つた人は君子でなくて小人であるといふことになるでないかと論難する。君子は古を述べるよりも新に作るものだといふのが墨子の思想である。墨子は儒家が「勝てば奔るを追はす」といふのにたいし、暴亂の徒が敗れて奔るときにこれを追ふて撃滅せざれば天下の害は依然として殘るのだから、奔るを追はずの説は僞善であり不仁であるとして攻撃する。又、墨子は儒家が「君子は鐘の如し、撃てば鳴り、撃たされば鳴らず」といふのは獨善であり僞善であるとして攻撃する。いかなる天下の大事ありとも、問はれない時は沈默するといふのは大亂の賊であり、君には不忠、親には不孝、兄には不悌、人には不貞であるとする。凡そ民に三つの忠がある。寒者が衣を得ないこと、飢者が食を得ないこと、勞者が營々として寸刻の休息も得ないこと、これである。大國は小國を攻め、貴は賤に傲り、強は弱を劫かしている。かような天下の亂は儒家のいふように琴瑟を彈じて治めることなど決してできない。孔丘(孔子)は盛容虚飾して世を惑はし聲樂を以て民を愚にするもので、その學、その道は世を導くことができないとする。墨子は孔子をいろ/\こきおろしている。孔子が齊の景公及び晏子の己れを用ひないのを恚つて陰に田常を使嗾して内亂をなさしめたとか、孔子が陳蔡の間に苦んだ時に子路が追剥をして酒を買つてきたら孔子は酒の由つて來る所を問はずして飮んだとか、後に哀公に用ひられた時に一々禮儀をきびしくするので子路が何ぞそれ陳蔡と異るやと問ふたに對し、さきには汝と苟生をなし、いまは汝と苟儀をなすのだと答へたとか、書いてをる。これは莊子が孔子を揶揄的に描いているのと同じ趣旨にいで、孔子の眞相にふれていない。しかし墨子の徹底した人民主義、愛他主義、平和主義、世界主義は儒教の權力哲學と衝突せざるを得ない。  墨子の諸篇には一種眞摯の力が漲り一讀肅然として襟を正さしむるところがある。これは彼の述べている思想が人間社會における永遠的なものを把握しているからである。彼は古代中國の最大思想家の一人であり、中國社會主義の遠祖である。 [#改ページ] ##第二章 アリストテレスにおける國家と人間 ###一、生涯 アリストテレスは紀元前三八五年にトラキアのスタギラに生れた。スタギラは今のサロニカ市の東方にある。もとイオキア系の植民市である。父はマケドニア王の侍醫であつた。十七八才からプラトンの門に入り二十年間師事しプラトン沒後にはアレキサンデルの師にほ聘され、後者が王位を嗣いだ後にはアテネで學園を開き最後の十二年間を研究と講義のなかで暮した。彼は古今にまれな學問界の巨人で各方面の學問はかれを祖とする。その學問的業蹟は論理學、形而上學、物理學、倫理學、政治學、美學等の廣汎な範圍に亙つてゐる。イオニアの自然哲學の傳統や、醫者の子としての實驗的學風などが彼の學問の成立に影響があるが、プラトンの倫理的理想主義の薫陶をうけたことは彼の學説をその何れかに偏する片輸的なものたらしめなかつた。彼はその教へ子アレキサンデル大王の死んだ翌年三二二年に沒した。  彼の時代はギリシヤの都市國家が土崩瓦解し、ギリシヤの自由の墓と呼ばれるカイロネイア戰役によつてギリシヤがマケドニアに併合され、遠くアジアに及ぶアレキサンデルの大帝國が成立し、未來はさらにローマ帝國の成立をはらんでをり、ギリシア哲學も彼を最高の完成者となし、それにつゞいて世界市民的なヘレニスム哲學の時代が現れた。とにかくアリストテレスこそギリシアの學問と精神の最高峰である。 ###二、世界觀  彼の哲學的基礎は生命論だといへるであらう。しかしプラトン的神秘主義ではない。彼はあらゆる存在は質料と形相との綜合たる全體であるとなす。質料は存在の可能態、形相はその現實態で、前者は絶へず後者へ發展する衝動を含む。一切の存在はかゝる運動のなかにとらへられる。質料は既になにらかの形相をふくみ、形相はなにらかの質料をふくんでをる。世界はつねに永遠の運動である。しかしこの運動の根本要因としてアリストテレスは純粹にして第一義的な形相すなはち神を想定し、他を動かすが他から動かされない根源力をそれに附與した。そこにプラトン主義の殘り香があるけれどもプラトンのやうな詩的空想のまじつたものでない。  實際アリストテレスはプラトン主義者ではない。かれの方法論は實證的、論理的、合理的であり市民的ですらある。しかしギリシア人が自己を高貴の民族となし、異民族を蠻族視し、社會的にも人間の本質的差等を認め、賤しき血を以て高貴の血を汚すまいとするところのギリシヤ的貴族主義は彼にもある。人間生存の究極を倫理――その中心課題は正義である――に求むるギリシア哲學の固有原理が彼にもある。彼の教へ子アレキサンデル大王の建設した巨大な世界國家に對しても彼は特別の感激も示さず、むしろマケドニア王室の專制主義にギリシア的反感を有したのではあるまいかと思はれる。若い大王の世界國家思想やその大事業に不思議なほど全く理解を示さないところに彼の純粹ギリシア人の俤がある。(ギリシア人は生れながらの小國主義者――ポリス讃美者であり、したがつて大國憎惡者であつた。) ###三、アリストテレスの國家觀 アリストテレスは國家を歴史と觀察によつて分析する。彼は一五八の國家の政體を分析して記述した。ギリシアの都市國家の歴史を研究したのみならず、マケドニア王家と關係深かつたからその征服した東方諸國についても豐富な研究材料を與へられた。彼の政治學も結局倫理學の一部に外ならぬが、しかし一應政治と倫理を區別し、比較分析の方法と合理主義的基礎に立つて政治學に獨立の學としての體系を與へた。  彼は國家の起源についてはこれを村落共同體の結合に求める。この共同體はさらに溯れば家族といふ原細胞の擴大にある。國家は原始的家族生活の自然的擴大として成立した一種の有機體である。(十九世紀の國家有機體説の起源といひうる。)  ギリシアの固有思想としての、國家と社會の同視、國家の倫理性、法律への尊敬等は依然アリストテレスの政治學の基礎思想である。  彼は人間は生れながらに政治的(ポリス的)動物であるとなす。共同生活は人間の自然的本能である。國家は自然の産物で、生活の充實と美化とは國家においてはじめて實現される。彼は全體は部分のまへにあると考へる。國家は人間に内在する政治的倫理の發現として個人以前にあるものである。彼は人間の自己愛を認めるが、しかし個人は國家なしに生活できない。されば彼は國民の國家に對する無條件的献身を要求する。いかなる市民も自分が自分に屬すると考ふべきでない、あらゆる市民は國家に屬すると彼は言ふ。彼は國家と社會とを區別しない。實際上ギリシアではこの兩者は後世のやうに分裂してゐなかつたのである。人間は政治的動物であるといふかれの言葉は社會的動物であるといふのと同意義である。  彼はギリシア人らしく國家の倫理性を力説する。政治學を倫理學で基礎づけるのはプラトンと同じである。實際上、かれの政治學は倫理學の一部に外ならない。國家の目的は國民が道徳的となり、それを通じて幸福となることにある。國家は肉體的物質的欲望のために存するのでない。又恐怖や暴力によつて國家が成立するのでない。人格と知性との發揮、道徳的性質の最高の向上が國家の存在理由である。國家は單なる生活のためのものでなく、善き生活のためのものである。生存の條件と生存の目的とは異る。外面的生活手段はもとより必要であるが、國家の目的は人間に可能な最高の生活即ち道徳生活にある。眞の人間の觀念は國家のうちに又國家を通じて體得されるとなす。名聲だとか商業だとか物質的富だとかは第二義的なものにすぎない。國民の道徳的知的幸福が國家の第一目的である。  アリストテレスは法律を以て、正しく發言された理性であり、欲望なき理性であるとして之を尊敬する。ギリシア人は過去の偉大な立法者を他の民族が宗教の創始者を尊敬するやうに尊敬した。偉大な立法者は靈感をうけて國家を救濟した人として仰がれた。法律は單なる懲罰的なものでなく國民を道徳的理性的生活へ高めるものとせられた。  アリストテレスは國家の政體を分つて三となす。第一は君主政治(一人の政治)、第二は貴族政治(少數の政治)、第三は民主政治(多數の政治)である。それらの墮落した形態として暴君政治、寡頭政治、暴民政治がある。政體の墮落と否とを決定する標準は國家の全體的利益を眼中におくか又は自己自身の利益を眼中におくかにある。而してアリストテレスの支持したのは第一が貴族政治であり第二が民主政治である。これは次に述べるかれの人間觀や階級觀にもとづくのである。 ###四、アリストテレスの人間觀及び階級觀  ギリシア人は自民族を以て高貴な惠まれた民族であるといふ誇りをもつ。異民族殊にペルシア人をバルバロイとして見下げた。バルバロイの語はもとギリシア語の通じない非ギリシア的民族の意味であつたが、次第に劣等民族とか蠻族とかいふ意味に變つた。アリストテレスは政治學のなかでギリシア人は生れつき支配者であり主人であるものだがバルバロイ殊にペルシア人は生れつき被支配者であり奴隷たるべきものと規定してゐる。これは單なる排外主義でない。高貴なるもの、天分あるもの、強きもの、善良なるものが下賤なるもの、俗惡なるもの、弱きものと本質的に異るとするギリシア的貴族主義の産物である。  この貴族主義は當然に國内の人間關係にも妥當する。自由人とは徳高く、自らに克ち、自己の境遇を支配し、賤しさがなく、自己を信頼し、他からも尊敬される人間であるが、そのやうな人間は賤しい血統によつて汚されない、高貴な血統の生れにおいてのみあるとせられる。アリストテレスもかやうな貴族主義を分有する。  アリストテレスは國家内の各個人はその本性上、異つた地位にあるのだとする。職業や勞働の分化は歴史的發展の結果でなく、人間の本性にもとづく産物であるとする。人間を人間として尊敬し、個人の人格の意味を認め、個性の獨立や尊嚴を理解することが見られない。弱き者、虐げられた者に對する人間的同情も見られない。  アリストテレスのこの見解は奴隷や手工業者や商人について鮮明にあらはれてゐる。彼は奴隷は精神的肉體的素質の相違から生ずるもので、完全な市民と動物との中間的存在であるとする。しかし奴隷は戰爭の捕虜からもできるでないかとの非難に對して、彼は敗北といふ事實は勝利者より劣つてゐることの證明だと答へる。彼は知的仕事と肉體的仕事とを峻別し、それは自然の本性にもとづいたもので、肉體的勞働は人を粗野にするものであり、又本性の粗野なるものが勞働するのだとする。手工業や商業は人間の心から自由を奪ふものだとする。だから奴隷はもちろん手工業者や商人は國家の政治から除外さるべきで、手工業者や商人の數が多いとき、それらは國民大會や國民公判に參加することは許されるが國家の官職に就くべきでないとする。  アリストテレスは貴族政治を最良の政體とするがそこでは手工業者とともに婦人もまた政治的權利を與へらるべきでないとする。婦人はその本性からして男子と同一の能力を有せず、教育しても男子と同等になれない。婦人は最高の徳や幸福の能力がない。この見解においてアリストテレスはプラトンより後退するものである。  アリストテレスは所有を重んずる。彼はけつきよく徳と幸福とは有産者にのみ可能であり、民主政治といへども無産者が支配する場合には道徳は發展しないとする。彼は貴族政治に次いで民主政治を善しとするが、しかしそれは武裝力があり且つ有産的な市民の國家であるべきである。つまり今日の言葉でいへば中産階級の國家であるべきである。かれはプラトンの共産主義を反人性的なものとして反對する。  かれは質は量に伴ふといふ觀念から民主的な政體や政策を肯定し、市民の直接的な政治參加に好意をもつと共に政府は國家生活を統制し命令する優良な人々から成立すべきで、かゝるデモクラシーのよき實現者は小規模な國家においてのみ可能であるとなし、この點からギリシアの都市國家の世界的普遍性をみとめた。(しかしかれ以後に歴史上いくたの大國家が成立したし、今後の世界でも大國の意義はます/\大きくなるが、それらにおけるデモクラシーはギリシアの都市國家におけるごときものでありえない。)  アリストテレスは人間の自由や階級の存在理由について以上のやうな謬つた見解をもつてゐるが、かれの實證的學風は政治と經濟との關聯について鋭い觀察をしてゐる。富の性質と分配とが政府の形態を決定するといふ思想や、各人の職業がその政治的態度や能力に影響するといふ思想のみならず、革命は富者と貧者との鬪爭から起るのだといふ考へ方もある。  アリストテレスの政治學は學究的ではあるがプラトンのやうな激しい實踐的意欲を有するものでない。彼は最高の生活は觀念と理論の生活だとする。プラトンにおける哲人は嫌でも天上から地上の洞窟に下つて同胞を救はねばならぬとせられてゐるが、アリストテレスにおける哲學者は現實の國家や社會から遊離した觀想生活の讃美に終る。ここにアリストテレスの最もポリス的な倫理の根底に、後のへレニスム哲學における個人主義的超ポリス的な思想の萌芽がひそむ。この意味でもかれはギリシア哲學最後の一人である。人間を本性によつて嚴格に差別立てたのがギリシア的貴族主義の最後の鋭い表現であつたと同樣に。  要するに人間を人間として尊重し人格固有の自由と尊嚴をみとめるところの近代的感覺はかれにみとめられない。勞苦者の解放が人間解放の根本條件であるといふ認識はない。ギリシアの滅亡は外力の壓迫だけでなく、國内における階級矛盾とくに奴隷制度の矛盾にあつたのだが、奴隷制度の肯定者であるアリストテレスには當然かゝる觀察が缺けてゐる。 [#改ページ] ##第三章 ストア哲學における世界市民主義 ###一、政治的逃避の哲學の種々  紀元前三三八年、カイロネイアの戰に敗北してギリシアはマケドニア王の併合するところとなり、ギリシアは政治的獨立を失つたが、これよりギリシア文化はアレキサンデルの征服した廣大な地域に流布せられ、埃及に、またローマにひろがり、いはゆるへレニズム文化の時代に入る。ヘレニズムとはギリシア風なものといふ意味である。  これより先きギリシアの末期には外患と共に國内の政治の腐敗、諸黨派の私利的鬪爭、個人主義の勃興などのため、精神生活においては各種の逃避的思想がはじまつた。かつてのギリシア人はあれほど國家を尊敬し自己自身を國家のなかに投げ入れ、自己と不可分のものとして之を眺めてゐたのであるが、今はその國家が壞敗し且つ敗戰による生活不安の一般化するにつれて、國家の否定や嫌惡、公的生活からの逃避がはじまり、それが哲學の形にも表現された。(國家とか民族とかのやうな現實條件が健康でなければ人の精神生活も病的ならざるを得ない。)  こゝで個人主義と世界主義が登場してくる。この二つは後世まで、いな今日まで思想上、哲學上の大きい課題をなす。それらのギリシア末期における現れ方は後に述べるやうにけつして健全でなかつたが、中世から近世に至るうちに健全な思想としての發達もしてきてゐる。惡いものが善いものへ轉化されうる一つの例であるとともに、初期に示されたその弱點――國家民族などの現實條件をとびこえての個人主義と國際主義との握手――は屢々頭をもたげてくる。  さてギリシア末期における政治的絶望と逃避の哲學につぎのやうなものがある。  第一は富裕なものの逃避哲學としてはアリスチポスを祖とするキレネ派の快樂主義がある。一切を遊びつくせ、自らに善しと感じられるかぎり心よいものを享樂せよといふ瞬間的官能的快樂主義である。國法に支配されたり祖國の犧牲となつたりするのは愚なことである。賢者の祖國は一切の國家を超越した世界である。快を感覺する自己を守りながら一切の社會的係累からはなれやうといふのである。  第二に貧しいものの逃避哲學としてアンチステネスを祖とするキニコス派がある。一切の文化的なものから背き去つた單純生活に復歸せよとする貧乏人の諦めの哲學である。認識とか學問とか理論とかは不確實で不可能だとする懷疑主義に立つ。富や名聲や健康や家族や友や祖國は心にかけるに價するものでない。純粹に自由なる自己の自然に從つて生きればよい。自然に從ふ生活のなかに徳の自足自律がある。どこの國の法律や制度にもとらはれすに無一物の生活をするのが賢者だといふのである。この思想は實際において奴隷に甘んずる屈從道徳に外ならない。壓迫者支配者はむしろかういふ個人主義や世界主義が被壓迫者の間に行はれるのを喜ぶであらう。  第三に中産者の逃避背景といふべきものとしてエピクロスを祖とするエピクロス派の快樂主義がある。たゞしかれの快樂主義はキレネ派のやうな官能的なものでなく、快は人間に生れつき有する善で、この善は幸福に生きることであり、その幸福は心をかきみだすやうな獨斷《ドグマ》からはなれて、平靜不亂《アクラシア》の心境を保つてゆくことから生れるとする。一切の外面的な浮沈や不安や苦悶をはなれ、國家や社會の作り出した制約に禍されず、それらから無關係に生きるべきで、又死とは生物が自然に還ることに外ならぬから怖れる必要もなく、たゞ心の平靜を保つて暮せといふのである。人間相互の社會的つながりを問題とせぬ利己的な個人主義倫理に外ならない。これも結果において社會や政治における不正不義をそのまゝにしておく怯懦な現實維持哲學に終るものである。 ###二、ストア哲學者の世界市民主義  以上の哲學潮流と關聯をもつているが、それらと異る獨特の世界觀のもとに世界主義的な社會觀と道徳哲學を發展させたものにストア哲學がある。それはローマ帝國の思想や政治にも廣汎な影響を與へ又キリスト教の思想内容にも影響した。紀元前三世紀のギリシア人ゼノンを始祖とし、その弟子クレアンチス、その弟子クリシポスとつづく古ストア派、同二世紀から、一世紀に至るパナパチオス、ポセイドニス等の中期ストア派、ローマ帝政時代のセネカ、エピクテトス、皇帝マークス・アゥレリス等のローマ・ストア派に大別せられる。  ストア哲學者は現在の差別的排外的な國家社會の諸制度は人爲的非理性的であり、世界の人類はすべて同胞であり、人類にとつての眞の國家は世界である、世にはたゞ一個の國家が存し得るだけで、民族や階級の差別や個々の國家の差別を超越する世界國家あるのみ、萬人はその世界國家の市民であり、その權利に差別はないと考へる。人々は有限的な現存國家の制約から解放せられ、人種の差異や上下の階級別を去り、世界國家の自由平等な同胞として生活すべきであるとする。國家の制約からはなれた個人の人間性と全人類の平等といふ觀念がたゞちに結びつく。  この思想の前提をなすストア哲學者の人間觀は次の如くである。即ち自然には神の理性が遍滿してをり、人間もこの神的ロゴスを分有する理性的動物である。神と自然とは同一である。人間は神にして自然なるものの一部である。その本質をなすものは理性である。人生究極の目的は幸福であり、幸福は道徳的に生きることにあるが、その幸福は人間が自然に從つて生活することによつて得られる。自然に從つて生きるとは理性に從つて生きるといふことである。  自己の自然すなはち理性にしたがつて生活するもののみが賢者であり有徳者であり自由人である。自己の自然に從つて行動するところにのみ自由がある。理性は人間のなかに存する神的部分であり、最善の自我で、この自己自身の本質と一致して生活することが人生の最高の目的である。人間が自己自身の自然に從ふとは理性に從ふといふことにほかならぬ。この自己自身の自然に從ふことは一般の善と合致する。あらゆる道徳的行爲こそ正常なる自己發揮であり、一切の不道徳は自己破壞である。自然に從ふ生活、理性に從ふ生活、道徳的な生活は同一のものである。  ストア哲學者は一切の人間は神的理性の分有者であり、互に自由平等の同胞として相愛すべきものだといふ見地から、階級的差別とくに奴隷の存在について否定的判斷を下す。主人と奴隷との差は其人が内的に自由であるか否かが根本問題で、主人であつてもその心が非理性的な欲情にとらはれてゐるならば自由市民の生れや身分であらうとも實は奴隷である。又肉體的外面的に奴隷であつても共人が道徳的な内的自由をもつて生きるならば自由人であるとする。ローマのストア學者エピクテトスはかつて奴隷であり後に解放されて自由の身分を得た人であるが、その語録には、主人も奴隷もその本性上、同じ人類同胞であり、眞の自由は外面的な奴隷であることと何の關係もなく、健全な人が病人に奉仕されることを好まないやうに、自由な人は奴隷から奉仕されることを好むものでなく、人、奴隷たるを好まないならば他人を奴隷とすべきでなく、奴隷を所有する人間は其人自身、奴隷であるにほかならないといふ意味をのべてゐる。  ストア哲學者は、人間を區別するものは有徳か不徳かだけであつて、人類は生れながらに自由平等であり、男女も平等であり、人類は現存の狹い國家の枠内の法律や制度を超越して神的ロゴスの支配するたゞ一つの世界國家の市民となり、同じ牧場の家畜のやうにその生活や秩序を同じくして生存すべきで、民族、血統、地方の差異の如何を問はず、有徳なる者はひとしく自由人として兄弟たり親戚たり友たるものであるとする。  ストア哲學者の理想とする賢者は、自ら足ることを知り、財の所有を欲せず、外面のいかなる事物にも恐怖をもたず、靜かで不動の心をもち、死が大地に返るものであるを知つて之を恐怖せず、自らの自然即ち理性に從つて道徳的に生きる人である。かゝる自然に從つて生きる人のみが自由人である。人間がこの世につれてこられたのは理性のない動物のやうに生きるためでなく、神の事業をこの世において眺めるためである。いな眺めるだけでなくそれを解釋し實演するためである。神は外部にあるのでなく、われ/\の内部にあり、理性を與へられているゆゑに人間は神の一片である。理性は人間にとつて生れながらのものであるが、人間を非理性に行動せしめる環境が多い。理性は一の潜在力である。これをめざめしめるのは哲學的教養であるとする。人間をして快苦を超越させ、目的なき行動をとらせず、虚僞僞善の行爲をなさしめず、他人の行動の如何に左右せられず、あらゆる出來事や運命を己れ自身の出てきた同じ源から出てきたものとして甘受せしめ、死はあらゆる生物がその構成元素に還元するものに外ならぬのを認めて快活な心で死を待たしめるのは、哲學の指導あるのみとする。たゞしストア學者のいふ哲學とは單なる觀想の生活でなく、克己の徳を積み不動心を養ひ之によつて行動を支配することのできるところの、この世界及び人生の解釋の學といふ意味をもつ。かれらの道徳々目は善良・眞摯・無飾・正義・親切・愛情・敬虔・節操・虚名の蔑視・剛毅・柔和虚心坦懷・禁慾・節制・不滿を抱かざること等である。徳は最高の善で、幸福生活の同格名辭であり、一切必滅の人生にそれのみが不滅であるとする。ローマ人の性格はストア哲學によつて鍛へられた。 ###三、ストア哲學における唯物論的世界觀  ストア哲學は唯物論的世界觀に立つている。それは自然即神といふ汎神論に立つてゐる。單なる有神論でない。神は自然のなかに内在する。他方よりいへば自然そのものが神である。而して一切の現實的なものは有形であり、一切は物質的である。精神も物質的なものである。一切の物質をうごかす力は物質自身に内在する。むしろ力とは最も高等に發達した物質の謂である。神的ロゴスとは宇宙全體にはたらくかゝる力であるとする。だから神も物質なのである。  かれらは一切は因果法を以て生滅するもので、その全經過は内的絶對的必然性をもつて生ずるとする。これも唯物論的思惟の特徴である。必然性は宿命といふ言葉で呼ばれた。絶對に必然なるものは絶對によく自己の目的に適したものと考へられた。理性は萬有の内部にある絶對必然性である。神とはこの必然性に外ならない。ストア學者は、萬物は解體して火となり、更にそれから新しい世界が前と同じ經過で創造され、宇宙は永久輪廻として同一秩序を同一方法によつてくり返すと考へた。かれらに發展の思想はなかつたが、事物の一切の過程が内的必然性によつて生起するものであり、一切は嚴密なる因果的關聯においてあるといふ認識をもつてゐた。  又表象が感覺を通ずるといふ思想に立つていたことも唯物論的である。眞の認識の豫備條件は健全な感官であつて、感覺を通じて得られた表象は外物の精神への印象であるが、それは單なる印刻的なものでなく、精神の作用によつて自己自身及び客體を統一的に表現するものであるとする。  要するにストア哲學には唯物論哲學の主要特徴がある。もとより唯物論は唯物主義でなく、ストア哲學者は唯物主義者でなく、むしろその必然の認識や自由の理念を通じて高貴な道徳生活をした。ストア哲學者の一人セネカは暴君ネロによつて殺されたが、その死に際して騷ぎ立つ友人たちを却て慰め、自己の哲學的見解を語り、人間の恒性と友情が人生至高の徳であることや、哲人は運命の慘虐に豫め決斷をもつてをらねばならぬことなどを説いて從容として哲人らしき大往生を遂げた。死生の問題についての凜然また泰然たる態度はストア哲學者に特有的である。幸運に腐らず不運に喪心せざる精神的偉大がその目標であつた。  さてストア哲學は近代とどんなつながりがあるのであるか。またそれがその時代にもつた役割はどんなものであつたか。 一、ストア哲學にはじまつた個人の生れながらの自由平等といふ思想は近世のデモクラシーの一つの思想的源泉である。古代と異つた近代の社會的環境のなかで成長した我の自覺はストアの思想と當然異つているものを含むが、前者は後者を新しく發展させたものだといへる。 二、ストア哲學の世界市民の思想は近世のインタナショナリズムと關係がないことはない。後者は近世の資本主義的環境と勞働階級の階級的生長から基礎づけられているが、それでも前者との思想的連絡はたどりうる。 三、ストア哲學は當時の社會的思想の改革にどんな貢献をしたか。ほとんど具體的な貢献はなかつたと思ふ。人の道徳的修養には役立つたであらうが、これを原理とした現實運動はおこらなかつた。むしろ國家や民族んどの具體的條件を飛びこえて、現實に存在しない世界國家といふ空想的理念のなかに人をつれこみ、結果において現前の不正に目を閉づる一の逃避哲學たるものであつた。現實は具體的で且つ竣嚴である。國家や民族を無視するかぎり、いかなる改革思想も現實の人間苦の解決をもたらすものでない。ストアの世界市民主義は現實的基礎のない空想であつた。しかし世界歴史の發展が將來世界を一家とする現實條件を作り出しつつあるのは事實で、ストアの思想はあらたに回顧される價値がある。 四、ストア哲學はローマの上層の貴族や武人や富者の思想で民衆の哲學ではなかつた。しかしその世界市民主義は民衆の宗教たるキリスト教の四海同胞主義の理論的基礎づけともなつた。ローマの上層がキリスト教に入信するもの多くなるにつれてその現象がおこつた。 五、ストア哲學の自然即神といふ唯物論的世界觀は後にスピノーザ哲學において絢爛たる果實を結んだが、文藝復興期の、自然は生き且つ美なりとする自然哲學にも影響を與へているし、ゲーテの世界觀にも多少の影響をもつとかんがへられる。 [#改ページ] ##第四章 キリスト教における社會觀 ###一、偉大なる精神革命  紀元前六三年、ユダヤ國はローマ軍の蹂躙するところとなり、政治的獨立を失ふてローマの版土となり、これよりユダヤ人は國土なき世界放浪の民となる。ローマ人はそのあらゆる征服地における如くユダヤ人の民族的自主性を徹底的に禁壓し苛酷な徴税をした。その直後にこの被征服者のなかからイエス・キリストが出て世界主義的な宗教を唱へ、數世紀後にはローマの國教となり、ギリシア文明と並んでながくヨウロッパ精神文化の淵源となつたのは偉大なことである。  ユダヤ人は過去に歴史をもたなかつた粗野な民族でない。舊約聖書によれば紀元前十二世紀の遙かな古代に北アラビヤと東エヂプトからカナンの地に入り、遊牧生活から農耕及び商業の民に轉じ紀元前六世紀にはバビロン虜囚の憂き目をみたが、再びエルサレムの地に國を建て、その精神文化は多神主義を克服して一神教――エホバの崇拜――に達し、祭司や預言者を指導者として民族感情が強烈であり、又、その社會組織においては古代の共産主義的訓練は消滅していたが、神の前に萬人は平等であるとされ、神の律法は恰もギリシア人の間の國法とおなじ權威を有していた。紀元前百五十年頃にはエツセネなる數千人より成る宗教團體があつて徹底的に共産主義を實行しその共有は衣服にまで及んだ。それはユダヤ人の實際的及び宗教的生活の主流でないにしても、その信仰の熱烈、清淨なる道徳、同胞相愛、聖貧なる生活などはキリスト教の成立にかなり影響を與へているらしい。  しかしイエス・キリストの教理は、ユダヤの一神教の傳統のなかから出てきたけれど、全く新しい四海同胞主義の獨創と深さをもつて現れた。キリストは天國といふ清新獨特なる觀念を啓示した。それは人間の内面的心意の根本的革命を要求するだけでない。天國は見える國の變革をもいみするところの、人間生活の全面的變革の要求である。キリストは神への信と人間への愛を結合する。神に絶對歸依し純粹に神へ間斷なく歸向することによつて人間の全本質が向上する。人間は神の前に一切平等でかつ等しい價値をもつ。己れ自らのごとく隣人を愛せよ。神の本質たる愛と人間結合の紐帶たる愛とは異質的なものでない。天國は近づけり、悔ひ改めよ、神の國は汝の内にありとかれは説く。人々は神への信を通じて自己を高めるのみならず、相互に内面的に結合する。宗教と道徳とは唯一つの生活の二つの脈絡あるあらはれである。信と愛は犧牲の生活から生れる。平和と新生とはそこからのみうまれるとなす。  キリストは價値の倒逆者である。富める者、權力ある者、學識ある者、戒律を後生大事にする者は天國より遠くはなれている。これに反して貧しき者惱める者、卑しき者、虐げられたる者、無學なる者、孤獨なる者は永生の憧憬に來ることがはるかに容易である。富める者の天國に入るは駱駝が針の穴を通るよりもむつかしいが、心の貧しき者は福で、天國は即ち其人の有《モノ》であり、哀しむ者は福で、其人は慰めを得ることができるからだとする。親鸞が「善人なほもて往生す、いはんや惡人をや」といつたのと同じ思想である。又、人なんぢの右の頰をうたば亦ほかの頰をめぐらして之に向けよ、又、汝の敵を愛し汝をのろふ者を祝し、汝を處遇する者のために感謝せよといひ、われらに負債ある者をわれらがゆるすごとくわれらの負債をもゆるしたまへと神に祈るとき、徹底した人間罪惡觀と神への絶對歸依と愛他主義とがある。  ユダヤ滅亡直後にその國人の間ではローマの壓抑より脱しようとする民族主義感情が高まつた。時人はこの意味における救世者《メシヤ》の出現をまちのぞんだ。民衆の一部はキリストをかゝる者とみようとした。しかしキリストはこの民族主義的要請に答へようとしなかつた。かれは一切の民族的なものを越へ、四海同胞主義のもとに人間の本質における内的革命とこの深い基礎に立つた人類的結合の原理を立てる。  しかしキリストは決して現世を絶望したのでない。かれは實に靈の革命を經たる人間を以て現在の世界を再組織せんとしたのである。ここにかれの偉大がある。かれは地上を天國に一致せしめんとする。かれは個人的滿足を拒否する。神の國は個々人の心胸にある。これにめざめた人間は天國を地上に現出することができる。「爾國《みくに》を臨《きた》らせたまへ爾旨《みこころ》の天に成るごとく地にも成らせたまへ」とかれはいのる。個人の一人々々を天國に入らしめるのでなく、靈的革命を經た個人を結合して地上の生活を變革して天國と一致せしめんとする。社會を離れて個人はない。人間は愛と犧牲によつて現實社會を善美ならしめねばならぬといふのがかれの要求である。  キリストは私有財産の否定者であつたといひうる。かれは富者に向つてその財産を賣り。貧しい者に分つことを勸告する。そうしなければ天國に入れないと説く。しかしかれは共産主義を體系づけたものとはいへない。かれは財産の共有や生産の共同はかんがへなかつた。愛の精神による慈善がその目標である。  原始キリスト教徒は農夫・漁夫・奴隷・娼婦などの被壓迫者が多數を占め、かれらの間では財産の共有はなく、生産は別々におこなはれ、生産物をもち寄つて共同に消費することが徴底しておこなはれた。この原始キリスト教徒の貧賤に甘んじ、義務ではないが愛の感情をもつて共同消費する生活樣式は後世のキリスト教徒によつてながく理想的社會生活形態として仰がれた。 ###二、キリスト以後のキリスト教 ####(1)パウロ  キリスト磔死ののちに彈壓に抗してキリスト教の基礎を据へたのはパウロである。パウロはパリサイ一派の出身である。パリサイ派は主知主義者であり、信仰上の自力主義者であり、またユダヤ國粹主義者であつた。かれらは學識者のみが信仰と道徳に到達すると信じた。キリストはパリサイ派を、僞善なる學者、自ら天國に入り得ず、他人の天國に入るをも妨ぐる者として痛烈に非難した。パゥロはパリサイ派の若い俊秀人物として最初はキリスト者の迫害に熱中したが、あるとき北方の都ダマスコにキリスト者迫害に赴く途上に突如として天の光と聲に打たれて地上に倒れ伏し、これより全く別人となり、逆に熱烈なキリスト者となり、ローマの苛烈な壓迫をしのいで宣傳に從事した。かれはいはゆる大死一番して自力主義的な道徳的主知論から自己を解放し神への絶對的信へ身をまかせ、靈を肉から解放してこれを絶對自由ならしめ、「神もし我らの味方ならば誰か我らに敵せんや」「もはやわれ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり」といふ新生・回心・感謝・淨福の信仰境に達した。かれは異郡人とユダヤ人とを問はず、かれ特有の精力的な活動性と信仰と學問をもつて其間の宣傳に從事し、後年キリスト教を世界的宗教たらしむる基礎を築いた。  パウロの強烈な信仰上の内的經驗はここで詳しく論ずる必要はない。しかし社會思想的にみるとき、われわれはパウロがキリストより一歩後退していることを言はねばならない。パウロは神學的にはキリストよりもより急進的となつたが、社會的にはキリストに反して現世的改革について熱情や關心のうすい保守主義者となつた。この神がゝり的な精神主義者パウロがキリストの大成者となつたのはキリスト教のために幸福であつたかどうかはわからぬ。人類は有機的に一體で、個人はその構成分子であり、物質的利害とかゝはりのない神の國において一切の個人は協同者であるとするパウロの超現實主義は、人間社會の現實的な害惡や苦痛から關心をひきはなす。さればパウロは奴隷制の肯定者であつた。人に爲されんと欲することを他人に爲せといふキリストの教へは、階縁的差別の現實問題を超越しては無意味となるのであるが、パウロは主人に向つては奴隷を公平に取扱ふように、奴隷に向つてはキリストに從ふごとく畏れをののいて主人に從ひキリストに仕へるごとく主人に忠實に仕へるように説教した。(エペソ書)。また彼は勤勉を奬勵すると共にその報酬として財産を獲得し所有することを肯定した。彼は原始キリスト教徒の共産主義的團體を再編制しようとしなかつた。かれは信仰においては貧富貴賤隷屬自主の差別なしとした。これはやがて現實におけるそれらの差別をそのまゝにするもの、むしろそれを容認することとなる。 ####(2)キリスト教の普及  パウロやペテロなどのいはゆる十二使徒の奮鬪によつてキリスト教はしだいにローマ帝國内にひろがつた。一世紀にはローマの下層階級をなす資民や奴隷の間にこの單純で清純な人類同胞愛の教が熱烈な信仰を得た。二世紀になると富裕者もひきつけられるやうになつた。ローマの上層階級のストア哲學の世界市民主義がキリスト教の四海同胞主義と結合する。ローマの世界帝國化にともなふ社會的混亂から生れる精神的不安はこの超國民的宗教の發展の素地となつた。ローマ皇帝はこの新宗教を迫害したが、迫害の募るたびに信者の團體は一そう強固となり、地下の墳墓たるカタコンベがその秘密集會の場所として利用されたことなどがある。三世紀になると富者の献納などのために教會が貴族的傾向を増してきた。四世紀の初頭になつて(三一二年)コンスタンチヌス大帝がつひにキリスト教の信仰自由を公認した。これよりそれはローマ帝國の國教となり、一はローマ・カトリック教として四方世界に、一はギリシア正教となり、コンスタンチノープルを中心として東方世界に傳播した。  キリスト教の國教化とともに教會と俗世權力との結合が深くなり、それ自身一の帝國的組織をもつ世俗的權力となつた。教會の巨額財産の保管者たる僧職者は俗界の上席者と同化した。  原始キリスト教の清純なる信仰生活を憧憬する多數の信徒等は教會のこの俗世的順應に反感をもつて田園に退隱して俗界と交渉を絶つた僧院生活に入つた。禁慾と聖貧がその理想であつた。遁世によつて死の彼方の幸福を憧憬した。かれらの間に原始キリスト教徒の共産主義的生活の傳統が保たれたが、しかしそれは社會性のない、孤獨的なものとなつた。 ####(3)アウグスチヌスとトマス・フオン・アキノ  キリスト教はローマ帝國の衰亡時代に人民の社會生活や精神生活の擁護者たる役割を果した。古代末より中世初にかけて西歐を大動亂に陷れたグルマン蠻族の間にも普及するに至つた。蠻族侵入による歐洲經濟の退歩や封建制度の成立はローマ教會のへゲモニーを容易ならしめた。十三、四世紀頃には法皇の權威が絶頂に達して全歐諸君主の君主たる觀があつた。中世の文化退歩時代に教會が精神文化の保存者となつた功績はいちゞるしい。キリスト教には、神の國は地上と否定的對立において發展するといふ絶對的精神主義があつて、文化の自由な發展をはゞむ面があつたが、ギリシア思想とも結合して中世のほとんど唯一の思想體系となつていた。  中世キリスト教を代表する二大思想家はアウグスチヌス及びトマス・フオン・アキノである。  アウグスチヌス(三五四-四三〇)はギリシア風と東洋風、古代キリスト教的なものと新プラトシ主義を混成したような、非常に個性に溢れた思想家である。かれには憎人的ともみえるほどの激しい人間に對する不滿がある。窮乏、矛盾、罪惡、國民間の戰爭、誘惑と墮落、恐怖、知的幻惑、その他の人間的弱點に對する強烈な呪咀がある。かれは人間惡は外からでなく内に住むのだとして感覺を非難する。かれは逞しい知識欲をもつているが、しかも知識にたいして不信な態度をとる。しかし彼には激しい生活意志がみなぎつてをり、人生に疲れた弱々しい求信者の態度はなく、存在と生活を結合せんとする強烈な戰鬪者的態度がある。しかも後は神なるものの前に嬰兒の如くになる。  彼は一切を神に結びつける。自然的世界を超越する完全なる有たり永遠の本質たるものとしての神を求め、眞正の幸福は神との接近においてのみ求められるとなす。神を求むるは福なる生を求むるためなり、我は我が魂の生きんがために神を求むと彼は言つているが、それは神を神そのもののために、一切を神のために愛すといふ熱狂にまで到達している。一切の價値は彼岸にあり、此岸の價値にたいする歡喜は不正である。道徳も神と結びつかないかぎり、それ自身では價値がないとされる。  この狂熱的な神觀と共にアウグスチヌスは教會の至上權威を主張する。教會が地上の一切の上に立つ。永遠の救と道徳善は教會によりてのみ可能である。國家は教會に對立する限り不正であるとされる。異教に對する狂熱的な憎惡や戰鬪はキリスト教徒の神聖な義務だとされた。中世の酷烈な宗教裁判や異端の審問をみちびき出した思想的責任の一部はアウグスチヌスにあるといひうる。  かれは人間の精神生活の一切を神に歸屬せしめたばかりでなく、歴史、國家、社會の現實の一切も神の意志によつて決定せられるとなす。一切は神の豫圖のまゝに進行する。人間の意志は眞に自由ではなく、神の意志のまへに無力である。神の意志が内部的必然性を以て人間の日常生活までを支配する。歴史の内在目的は惡魔の共同體を征服して地上に神との共同體を建設するにある。初期のキリスト教の教父たちはローマ帝國を激しく憎惡し、かれらは國家ほど餘計なものはないといふ國家一般の否定にまで到達していたが、その思想はローマ帝國がキリスト教を公認した後に出たアウグスチヌスにもなほ名殘りをとどめてをり、國家は教會の指導の下にあるかぎりにおいて肯定されうるとした。キリスト教徒の眞の母國は天上にある。民族や國家や經濟や學藝のごときは二次的なことにすぎない。人類歴史の基本内容はキリスト教徒の非キリスト教徒にたいする聖戰にほかならない。國家そのものは神の意志に反するものでないから、キリスト教徒もその制度に服從する義務があるが、それは教會の教説に反しない限りにおいてであるとせられる。根本目的は一切の人間活動を神の國と結ぶことにある。アウグスチヌスは以上のような思想をその神都論のなかで述べている。  トマス・フオン・アキノ(一二二五-一二七四)はイタリーの大貴族の子として生れた。彼が五十才足らずで死んだのはスピノーザの短命と同樣に惜しむべきことであつたが、早くよりローマ教會の學者として頭角を露はし、アリストテレス哲學に依據しつつ、欝然たるカトリック神學の大思想體系を組み立てた。彼には清新大膽な獨創は乏しいといはれるが、神學、哲學、認識論、形而上學、倫理學、政治學の諸方面に亙る體系化的手腕は巨大であつた。  トマスにとつて哲學はじめ一切の學問は神學の婢僕たるものであつた。神が一切の創造者で支配者である。自然も人間も神がその活動原因を與へたかぎりにおいて存在する。自由とか必然とか偶然とかは神の世界統治のなかに回轉するだけで、眞の矛盾はそこにない。歴史は神の豫圖にしたがつて開轉する。歴史とは神の目的の顯現する過程にすぎない。神が人間を創造したのは、かれらの最高の善と幸福の達成によつて人間を神に近づけるためである。人間は神にとつて道具にすぎない。かやうに一切は神に歸せられ、人間歴史は全く目的論的に解釋せられる。  しかしトマスの住んだ十二世紀は農村の靜的な封建的秩序とともに商業的な都市文明の發達しつつあつた時代で、農業がなほ共産主義的共同體の名殘りをとどめていた初期のキリスト教の教父時代とは社會的環境において異るものがあつたから、それはおのづからトマスの思索に反映する。かれはアリストテレスの理論に依據しつつ、國家や階級や私有財産を肯定して、原始キリスト教の共産主義思想の復活に反對した。ひろい意味の社會主義に反對するカトリック教會の思想的武器は今日もトマスの著書から持ち出される。  トマスの思想から興味ある二つのことをあげておく。  第一はかれの國家論である。それは必ずしも神がゝり的獨斷論ではない。アウグスチヌスにおけるように、罪惡的な地上の國と天上の神國との峻嚴な對立はもはやかれに見られない。かれはアリストテレスを踏襲して人間を社會的政治的動物であるとなし、人間はその生活の必要から他の被造物よりも遙かに共同生活をするように命ぜられてをり、且つ人間は理性を與へられていて、國家は人間理性の到達する最も高い、最も道徳的な共同體として成立するのだとなす。國家は人間の多樣な必要を充足するためにできた分業體系で、その地上的幸福や道徳は國家内においてのみ實現せられる。國家は自然必然的に發生したものであるから、神の意志にもとづくものである。だから國家や法に服從する義務があるとする。トマスは初期の教父たちの單純な國家憎惡や政治否定から離れて、かように國家を肯定する現實主義に立つに至つている。しかしこの世俗的國家は畢竟天上の神の國に至る準備にすぎぬ。地上の國を天上の國に高めるところの權威的母鶴はローマ教會にほかならぬ。だからローマ法王はあらゆる俗世國家の上に立ち、それを支配するのだとせられる。  第二にトマスはのちに社會契約説の原理となつた自然法の觀念の提出者として功績がある。かれによれば、自然法とは神の法である。それは人間に内在する絶對的なもので、人間の理性が神の理性へ參加することを意味する。それは神によつて人間に與へられた最高の準則である。この本來の自然法から導き出されてあらゆる國民の間に行はれる一般的な人間法があり、各國家の實際法律はそれに較べて低い、過渡的なものにすぎず、それが自然法と衝突する場合には自然法が優先すると論じている。  十六世紀の文藝復興期にはギリシア精神に源流をもつ近代ヒューマニズムが勃興し、キリスト教本來の非文化的超越的動同や神中心的自己否定的傾向とたゝかひ、教權にたいする懷疑や批判がおこつたが、ルッターの宗教改革によつてプロテスタント派(新教)の勃興があり、新しい生面がひらかれた。プロテスタントは早期資本主義や民族國家發生のイデオロギー的基盤の役割をもたした。十八世紀フランス唯物論哲學は興味多い無神論を展開したが、又、キリスト教は近代ヒューマニズムと結びついて内在的理性的信仰傾向も生み出した。十九世紀における自然科學の勝利はキリスト教の權威を下落せしめた觀があり、又ニイチエの反基督《アンチ クリスト》の如き果敢なる反キリスト教の思想もあるが、しかしヨーロッパ人におけるキリストの影響は牢固として拔き難い内面感情にまでなつてをり、最近時における中歐諸國のキリスト教諸派の著しい進出もヨーロッパ人がキリスト教を固有の傳統文化として保持していることの證據である。 ###三、キリスト教における私有財産及び階級觀  私有財産と階級的分裂は多くの社會惡の根源となるものである。しかし人間社會の發展の必然としてあらはれて來たものである。キリストは人は神と財とに兼ね仕ふる能はずとなし、富者がその財を賣つて貧者に分つことを命じ、原始キリスト教徒は消費面における共産主義生活を實行したが、ローマの國教となり更に全歐の政治的指導者までなつた中世のキリスト教は、事實として社會的に形成されてきた私有財産を階級分裂にたいして、もはや使徒時代のやうな單純な理論と實踐のみでもつて答ふることはできぬ。一方では原始キリスト教徒の清純なる信仰と生活への憧憬、他方では俗世の權力や富との結合、このジレンマのため中世の教父たちの私有財産觀や階級觀には掩ふべからざる動搖がある。  社會の發達と共に私有財産も發達し、そして使徒等の共産主義的生活原理になにらの興味も有しない富人がどし/\教會に加入し且つ教會自身も富者となりつつある。この實際事情に應じて、中世の教父たちの間に次のやうな見解乃至詭辯が生じた。  (1)個人の富はどんなに處分しようとも個人の自由である。たゞ神に責任を負ふ使ひ方であればよい。神に對して責任感をもつならば私有は罪惡でない。  (2)私有は古代の皇帝や王の制定したものだが、それが存續している以上、神の意志で存續しているのだと解せねばならず、從つて私有は神の秩序に即している。惡は私有そのものにあらずして誤れる使用方法にある。しかし富は貧者に施與を惜まざるときはじめて眞の價値を取得する。(アウグスチヌス)  (3)私有財産は末世必然の罪惡であるとする。  (4)私有財産及び奴隷制度は人間の本來的傾向ではないが人間生活に對する效用によつて發達した。(トマス)  新興ブルジョアジーを代表するプロテスタントの指導的思想家に至つては明自に私有財産の擁護者となる。中世末の歐州諸國の農民戰爭に際して原始キリスト教に立脚する共産主義思想が主張せられたが、それに對してまづルーテルが反對して、個人の不平等なくして現世的國家は存在せずと主張した。メランヒトンは、所有權は神權によつて存在するもので、帝權によつて變更できぬ、私有財産を拒否し制限することはキリスト及び使徒の意志に反くとなした。カルヴィンは私有財産なければ正義と誠實との標準が存しないからその存在は道徳上必要であり、富の不平等は神の命令なりとした。それに對して。ジョンウイクリッフのやうに、中央集權國家と共産主義を結合し、原罪の汚れを有する君主は、農民の共産主義團體を僧俗兩界の封建的領主の侵害から保護した場合にはじめて清淨たりうるとなした。  要するに經濟の發展に應じて私有財産についてのキリスト教の教義も變化せざるを得なかつた。しかし原始キリスト教における共産主義原理の影響はずつと殘つてきたし今も多少とも殘つているのである。  階級分裂については古代社會の主要生産者たる奴隷が當然問題たらざるを得ない。原始キリスト教徒には奴隷、賤民、貧者が多かつたが、すでにパウロは、信仰においては貧者貴賤の差異なしといふ論理から、事實上、奴隷制を肯定し、主人に對しては奴隷を公平に取扱ふやうに忠告し奴隷には忠實に主人を畏れて仕へよと動めたことは上述した。古代末や中世の教父たちの間には、「人は平等であつてひとしく神の僕である」といふ論理から、奴隷は忍從の徳を實行する機會を與へられるものであるから祝福であるとか、奴隷は原罪の結果生じたのであるとか、被征服者が奴隷となるのは神が比世で彼等を處罰し又はその罪を矯正するためであるといふやうな説がおこなはれた。十三世紀の偉大な教父トマス・フォン・アキノは、神はあらゆる人間を自由且つ平等に作つたが、奴隷制は墮罪に對する罰として現はれたものであり、そのかぎりにおいては自然の秩序に反してゐようとも、現在の損はれた自然の状態に對する神の正義の一つの現れとして、從つて正當なものとして考へらるべきだと論じ、つひに奴隷制の正當化に到達した。又彼は自然法と人民法とを區別し、奴隷制は自然法には叶つていないが、人民法には叶つているのだと論ずる。彼のいふ人民法とは人民の間の慣習法を指してをり、それは自然法から直接流れ出してをり、制定法以上のものであり、古來の人民法に叶つている奴隷制は不合理なものでないといふ奴隷制辯護論に達している。要するに階級分裂といふ動かすべからさる現實に當面して、これを歴史的に、また社會的に説明することは、超科學的な信仰主義では解決できず、却てその信仰主義から素朴な奴隷制肯定論に落ちたのである。 ###四、中世末の農民戰爭と原始キリスト教  封建制度の崩解する中世末にはヨーロッパの各地で農民暴動が頻發した。その際、農民が敵としたのは舊來の封建貴族であるが、當時成立しつつあつた君主政治もその彈壓者であつた。農民がその暴動に際し原始キリスト教に立つて共産主義を主張したところに特色がある。  ドイツ農民戰爭は一五二四年十月より一五二六年六月までに及びドイツの三分の二にわたつて農民軍と封建諸侯軍が交戰した。農民の指導者は青年牧師トーマス・ミュンツェルで、原始キリスト教の教義に立つ共産主義者として活動した。社會は共産主義の基礎上に改造されねばならぬ、治者被治者富者貧者は存在すべきでない、として富める者強き者の罪惡を鳴らし、十分の一税廢止其他十一ヶ條の要求をかゝげて戰つた。一五一七年に宗教改革の口火を切つたルーテルは、農民戰爭に反對し、キリスト教の靈的王國を外面的な此世の王國に變じてならぬ、個人の不平等なくして現世的王國は存在しない、或者は自由、或者は奴隷、或者は支配者、或者は臣民であることは神聖にして正當だ、といふ説をのべた。カウッキイはルーテルを無性格と罵つているが、要するに彼は中産階級の改良主義を代表したのである。ミュンツェルは捕へられて慘殺され、農民軍も慘慘たる敗北に終つた。  英國の農民暴動は一三八一年に勃發し首領的指導者ジョン・ポールの指揮の下に倫敦にも攻め寄せ、リチャード二聖は倫敦塔に逃げ込む騷ぎとなつたが、農民軍は欺されて潰滅させられ、ポール等は刑死した。農民軍の「アダムが耕しイヴが紡むときどこに主人《ゼントルマン》があるか?」といふスローガンで分る通り、これも原始キリスト教的共産主義に立つものであつた。  フランスでは一三五八年にジャックリー一揆、ロシアでは一六六七年のステンカ・ラージンの亂、一七七三年のプガチヨフの亂がある。  原始キリスト教的共産主義が農民暴動の旗印となつたことはヨーロッパだけにとどまらず、遠い中國に十九世紀半ばに爆發した太平天國亂また然りであつた。十五年間に亙り中國十六省を荒れまはつた太平天國軍はこの亂の前期において嚴格な原始キリスト教の倫理的理想に立つものであつた。  西暦一六三七年より翌年に亙つた日本島原切支丹の亂もその内容はキリスト教に立つた農民暴動であつた。 ###五、キリスト教社會主義  古代及び中世のキリスト教について述べた序に、近世におこつたキリスト教社會主義について一言しておかう。社會主義は近世資本主義社會におけるブルジヨアジー對プロレタリアートの階級衝突を契機として發生したもので、この階級モメントを最も強く主張するマルクス主義が社會主義運動の主流を成してきたのであるが、それはヒューマニズム的契機に缺けるところがあるから、社會主義思想の全部がそれによつて代表されてはいない。マルクス主義の先驅をなすユートピヤ社會主義の人々の間には却つて人間的な相互愛の感情や理念がゆたかで、それはおのづから宗教の問題をとりあげ、たとへばサン・シモンは新キリスト教なるものを唱へ、各人が互に同胞と見なし合ひ相互の幸福をかちうるために協働することを新社會の原理的精神とすべきことを主張し、ロバート・オーエンは舊宗教は否定するが、宗教一般を否定するのでなく、宗教革命を行ふて永久の善と智と幸福を確保する新宗教を作り上ぐべきことを主張した。愛を原理とするキリスト教は、この宗教の傳統的教養のもとにあるヨーロッパで發生する社會主義思想におのづから影響する關係をもつ。  キリスト教社會主義なる思想と運動は英國ではじまつた。一八四八年に農作物の不況と重税のために英國の勞働階級は動搖しロンドン其他でチャーチストの騷擾的運動がはじまつたが、この時、牧師マウリス、詩人キンケスレー、法律家ルドローなどがビラを撒布し、暴力を避け、道徳と宗教によつて人間の自由の道をきりひらくべきことを訴へた。かれらは一八四九年十一月から「キリスト教社會主義者」と題した雜誌を發行し且つ實際運動として消費組合及び勞働者教育に着手した。一八五四年にロンドンでマウリスが中心となつて設立した勞働者大學はその後の勞働者教育運動に大きい貢献をした。更に進んでキリスト教勞働組合の組織に着手した。この運動は各國にも波及し、キリスト教勞働組合インタナショナルなるものが成り、一九二八年に開催されたその第四回大會には組合員七十一萬七千名が代表されたそうであり、同インタナショナル加盟の勞働者は全世界で二百萬を超えたといはれる。  キリスト教社會主義の人々は、神の國は觀念でなく、地上に實現さるべきものであり、貧民の書たる聖書には壓制に對する神の聲が盛られてあり、天啓を通じて創造された神の國はすべての邪惡と貧困を克服すべき實踐原理であり、壓迫され辱められるものに神の正義と榮光がそれによつて與へられるとするのである。勞働運動も單なる階級運動でなく宗教運動たるべきものであり、宗派的でなく自由宗教的立場に立ち、商業的奴隷制度に反對するあらゆる人々を包含すべきであるとする。財産所有權は少數者の階級的特權であつてはならない。勞働條件は單にその國の經濟の技術的條件であるばかりでなく、精神的要素とならねばならないのだと主張する。  キリスト教社會主義は實際においては社會改良主義、勞資協調主義たるもので、したがつて社會主義の主流ではない。しかし愛の原理が新しい歴史段階たる社會主義社會にも必要であるのはいふまでもない。二千年の傳統と訓練を有するキリスト教は、支配階級の要具となつて民衆の利益を蹂躙したことが少くないが、貧民の味方といふ原始キリスト教の教理はつねになにらかの形態で復活しようとする衝動をもつてをり、又、ヨーロッパ文化の傳統的中心として、西洋の思想體系や社會運動や政治につねに影響をもちつゞけているのである。  日本占領軍の最高司令官マッカーサー元帥は、日本人が敗戰によつて精神的に打撃せられたことを指摘し、この精神的空虚を救ふためにキリスト教が大きい役割を演せねばならぬことを説いている。日本人が平和的國民として生長するためにキリスト教を學ぶことはもちろんよいことである。あらゆる偉大な宗教の原理は愛である。佛教における慈悲の原理はキリスト教における愛の原理と同じである。不寛容や彼岸的空想は不可である。信教は個人の自由權の重要なものの一つである。われわれは日本を平和な獨立國家に再建して新しいヒューマニズムの發源地たらしめねばならない。この意味からキリスト教や佛教の新しい檢討が必要である。 [#改ページ] ##附章 佛教における社會主義的精神  本文は宗教雜誌大法輪の依頼で昭和二十一年五月に書いた一文である。キリスト教に對比して佛教における民主々義思想や社會主義思想を研究するのはわれ/\東洋人にとつて必要なことである。今こゝにこれを詳しく行ふ餘裕がない。次文が多少の示唆ともなれば幸ひである。  私は日本の再建は社會主義に據るほかないと思ふ。社會主義は單なる手段だけのものでなくまた政治經濟上の改革思想たるにとゞまらず、根抵において自然や人間についての思想すなはち世界觀によつて基礎づけられねばならぬ。社會主義は西洋で發達した思想であつて、われわれはそれから學ぶのであるが、日本は西洋社會そのまゝのものでないから、すくなくとも世界觀的部分については日本や東洋の思想を基礎にもつことが必要である。東洋と西洋との世界觀には哲學的にも史觀的にも藝術的にも道徳的にも範疇の異つたものがある。その差異は次第に沒くなりつゝある側面もあるが、まだかなりある。この意味で汎東洋思想と呼んでもよい佛教は、社會的世界觀の新しい編成のために、見なほされる價値がある。  數千年のあいだ續いてきた教理や思想はそれだけ不磨の生命がその内面にある。佛教が印度に發し日本にはいつてきてから千年以上たち日本人の世界觀の重要な一部となつている。日本人の胸のなかには佛教的感情が重要な座席をしめている。佛教の祖述者が腐敗したり、明治維新當時のやうに新しい時代が急激に展開したり、俗信が支配したりすると、その内面の生命が正しく外面に發露することができずに、表面のゴミで蔽はれてしまふことがある。佛教はこれまで多少ともかやうな境遇にあつたやうに思ふ。いま日本に進行しつつある民主々義革命は明治維新に劣らざる大改革である。廢佛毀釋のやうな破壞的現象の再生産されないためには、佛教のもつ内面的價値を新しい形で生かすことを愼重に考ふべきであらう。  佛教のもろ/\の祖師たちは互に理論的にも實際的にもはげしい戰ひをした。自己の信條を主張するために當然のことであつた。親鸞と日蓮と道元とは對立の必然があつた。しかしそれから引續いてきた教團間の鬪爭や不和は宗教的といふよりもむしろ政治的であつたやうにおもはれる。各教團のもつ深刻な派閥性は社會のために進歩的意義をもつといはれない。日本再建の途上、そんなことは速かに終止符がうたれねばならぬ。  佛教の思想のなかには非空間的な時間觀念や寂靜主義や悲觀主義的否定論理や個人救濟的意識などが含まれてゐるが、かうしたものは人間生活の社會化がひろまり、空間的科學觀念が必要となり、超絶力よりも人間自身の力に信頼する人間文化の繁榮が要求せられる現代には適合しないところがある。  しかし佛教には民主々義思想や社會主義思想がかなり多量に元素的に含まれている。  衆生といふ觀念は民衆といふ觀念に通ずる。衆生救濟といふことは精神的な無明から脱することに力點がおかれてきたが、これは現代的に民衆を社會惡や社會苦から解放する意味のものに轉形し得るものであらう。  悟道の人、解脱の人とは世界の盲目的な制約から超脱し得た自由人の謂であらうが、人間が最大限の精神的自由を獲得することは社會主義の目的でもある。  佛教における平等の思想は貴い。自由と平等との統一は、現實世界においては、社會連帶觀念を紐帶として實現されうることであるが、更に深い精神的基礎づけは人性を深く掘り下げた佛教から學ぶべきものがある。差別を超えた大いなる我、否定を超えた明るい一如的肯定の思想は社會主義の精神的基底となりうる。  國主大臣を禮拜せずといふのは獨立不霸の自由人格を貴ぶ社會主義の精神である。  佛教の慈悲の觀念は西洋語でいへば愛であるが、社會主義の倫理は決して階級獨善的でなく汎人類的なものであり、したがつて慈悲の觀念は社會主義の根本精神と一致する。  即ち論理は東洋的思惟の特徴をなすものであり、西洋の辨證法とはちがつた深さをもつからこれも當來の社會主義世界觀において新しく生かされねばならぬ。  最も大切なことは、あらゆる革命はけつきよく人間性の革命を根本課題とするのであるから人間性に深い理解といたはりの態度をもつ佛教は、將來の社會主義的人間觀に寄與するところが必ず大きいであらう。煩惱具足の人間が合理的な社會主義の下で自己超克を通じて自由人に到達する過程について佛教的人間觀がわれわれに教ふるところは少くないであらう。  禪でいふ照顧脚下といふことは、ややもすれば全體主義的に陷りやすい社會主義社會において特に必要なことであらう。個人的自覺、個性的陶治なしの社會主義は殺風景な獨裁主義に陷る危險をもつ。現實を直觀し、そのなかに生き、現實を正しく導くことは社會主義にとつても缺くべからざる態度である。  日本はいま籠のなかの鳥のやうな姿でゐる。この窮境から完全に離脱するには單なる政治經濟上の改革だけですむことでない。日本人は世界史の進歩に魁ける世界人の一面をもたねばならぬ。佛教の四海同胞の觀念は新しく生かされねばならぬものである。新しい日本人の型が鑄出されねばならぬ。それには過去のよい傳統が十分生かさるべきで、佛教はそれに貢献しうるし、また貢献せねばならぬ。  しかし佛教の思想にも教團にも封建的なものが多い。いまは原子エネルギーの活用すらはじまつた偉大な科學時代であり、現實に世界が一體的進歩をしてゐる時代である。佛教はこれまで通りの封建的なものを先づ自ら拂ひ落さねばならない。宗教の新しいかたちは科學文明によつて濾過されたものでなければならぬ。  マルクス主義は社會主義思想として支配的であつたが、一定の限界があり、すでにそれが見渡されるやうになつた。新しい世界觀に立つて、原子科學時代の今日の人間を十分喜びを以て行動へ導きうる新しい社會主義理論が要求されてゐる。理論は單なる知識の遊戲でなくて人間社會を美しく築きあげる實踐のための道具である。人類の間に最も有力であつた宗教たる佛教は、古い封建的な衣を脱ぎすてて、新しい時代の基礎思想たる社會主義に寄與するものを自ら整理し提供する勞をとつてもらひたい。  私は不幸にも佛教の理論について深く知らない。獄中で親鸞だけはよく讀んで一應の理解だけは卒業したつもりだが、それも十分でない。昔の人は排佛主義者でもよく大藏經を讀破したといふが、自分にそうした勉強のないのは恥かしいことである。しかしこれからの新しい日本を建設する基礎思想たる社會主義の世界觀人間觀に佛教の寄與する側面の多いであらうことは十分想像できる。封建的イデオロギーから社會主義的イデオロギーへ、この轉化は佛教自身の行手にも要求されてゐることである。新しい佛教家の輩出を希望する次第である。 [#改ページ] ##第五章 文藝復興とヒューマニズム ###一、近世と中世との鬪爭  ヨウロッパの近世は、十四世紀末から十六世紀初頭にわたるイタリー文藝復興からはじまる。この時代から現代にかけての、ヨウロッパ人の社會的政治的發展と之に伴ふ精神的鬪爭の果實は實にめざましい。我々日本人はヨウロッパのもろ/\の學説や思想を「できあがつたもの」としてうけとり之を研究するが、實はそれらは文藝復興以來のヨウロッパ諸國の最良の頭腦が現實そのもののなかから血みどろの努力で作り出したものである。だから、たとへ我々はその歴史に參加しなかつたとはいへ、これを全人類的な業績として、追體驗的に研究する態度を捨てゝならぬ。文藝復興以來のヒューマニズムの嚴然たる流れは人類共同の精神的財産となつてゐるものである。  歴史は停止しない。社會の發展につれて、その内部に生れる新しい力が古いカと爭ひ出すことは不可避だ。しかるにヨウロッパの中世には、封建制度による社會の靜止状態と、キリスト教による單一的で又高壓的な思想的支配がおこなはれてゐた。中世末から社會的に精力の充溢してきたヨウロッパ人はそれを顚覆せざるを得なかつたし、事實上、これを顚覆して新しい發展のみちをひらいた。  中世文化はキリスト教會や僧侶の文化であつた。ギリシア、ローマの學藝における人間的、倫理的政治的、科學的傾向が、獨斷的で獨裁的な神の理念の一本槍で壓倒された。教父たちは聖書の記載をすべて動かすべからざる事質として前提した。世界の一切は神の豫圖にもとづくとされ、一切は目的論的に理解され、神の國と地上の國が峻別された。初期のキリスト教徒は國家を憎惡乃至無視し、世の中で國家ほど餘計なものはないといふ思想にすら到達したが、この非現實的思想は、教會が俗世權力化し私有財産や階級分裂を肯定するに至つた後までも、根抵的にはつゞいてゐた。  社會の現實の方では、封建制度のもとに權力が分裂し、領主と農奴が對立し、經濟は未發達で、靜止的な社會秩序が支配し、精神的には主觀と客觀が混沌たる未分離状態に彷徨してゐた。  教會は滔々として俗世權力化し、富と權力の所有者となり、ローマ法王は現世の諸君主に君臨する絶對權威化した。權威が絶對化されると直ちに墮落の道を行くことは一つの法則的現象である。形式的には極度の神聖化、内容的に腐敗墮落、これが中世末の法主であり教會であつた。  かやうな状態に對して、ヨウロッパでは新しい時代を生み出す力が刻々成長してゐた。中世末の十字軍の遠征は、それ自身は失敗に終つたが、これによつてヨウロッパ人はヨウロッパ以外の世界を發見した。特にサラセシ文化は驚異であつた。商業と生産が勃興して封建制度をほりくずす力が生成する。この力はまづ地中海沿岸のイタリーに發生した。活動的な商業と獨自の都市文明で富を惠まれ精神を自由にされたイタリー人が先づ全歐の文藝復興運動の最初の選手として登場した。  都市から國家の生長する古代史の過程が、地中海商業の新しい衝動のもとに再生産され、フローレンス、ヴェニス、ナボリ、ミラン等の小邦が分立し、商工業が發展し、都市文明が繁榮し、都市相互にはげしい競爭が行はれて精力が極限まで發揮される。新たに活發となつた東方交通の要衝に當るゆゑにイタリーは新しい地中海文明を發展させた。都市の空氣は人を自由にする。イタリー諸都市では貴族と平民が事實上平等となり、資力や閑暇ある私人の層が成立する。政治には僭主や傭兵の長が跋扈するが而もかれらは個人的才能の最大限を發揮する。しからざればその地位を保つことができない。教會への侮蔑嘲笑が公然小説や隨筆に綴られる。  當時のイタリー人は他のヨウロッパ人に先んじて世界を發見した。サラセン帝國のアラビア文化をどしどしとり入れた。(ボッカシオのデカメロンにはアラビアの千一夜物語からのかり物も見出されれる。)十三世紀にはゼノア人マルコポーロのやうにはる/゛\蒙古人の朝廷に仕へた大膽者もある。一四九二年にアメリカ發見の功業を立てたコロンプスは「世界は小なり」と豪語した。一四八六年には希望峰航路が同じくイタリー人の手で發見された。ブルックハルトのいふやうに、眞の發見者とは行きあたりばつたりに最初にどこかに行き當つたつた者でなく自ら求めて計畫的に發見する人でなければならぬ。當時のイタリー人はかゝる意味での發見者であつた。 ###二、古代への情熱。文藝復興期イタリー人の風格  文藝復興はルネサンス Renaissance の譯語である。この言葉は再生といふ意味である。それは中世の重苦しい教會の權威や世界觀を打破して、人間の自然を尊重し、個性を發揮し、自由な活動欲求の衝動を解き放ち、幸福を彼岸でなく現世の此岸に建設しようとする運動であり、ヒュウマニズムの確立がこの思想運動の根本目標である。ヒューマニズムはヒューマニクス(人間性)といふ言葉から出てをるから、ヒューマニズムは人間主義と譯するのが妥當であらう。人文主義といふ譯語は、人間性の發展の極致はけつきよく文化にあるといふ見地をヒューマニズムの語が含むからである。  文藝復興の運動は十三世紀末から十四世紀のイタリーに火の手のやうにひろがつた。その先驅者に中世と近世に跨る大詩人ダンテ(神曲の作者)がある。たぶんに空想的であるが熱情的な世界國家の構想、愛國的なイタリー國民感情、中世の類型化傾向をやぶる新鮮な個性の澎湃たる展開がまづダンテに見られる。十四世紀から十五世紀にわたつてペトラルカ、ポッカシオ、レオナルド・ダ・ヴインチ、ラファエル、ミケランヂェロ等の巨人が輩出した。十五世紀末には最大の政治哲學者マキアヴェリが出る。十六世紀になると、イタリーの文藝復興は衰へて、舞臺がその北方の中歐諸國に移るに至つた。  文藝復興はギリシア、ローマの古代に還れといふ運動としてはじまつた。古典には人間性が溢れてゐる。イタリー人は特にローマを己れの過去として追體驗し、その復活に熱情をもち、自ら古代ローマ人の如く感じ考へ書きたいと欲し、ラテン語の論文や演説が流行した。古代の文献が異常の熱情で蒐集された。各都市の僭主の宮廷や富人貴族や學者は寫本熱、蒐集熱のために資金や勞力を惜しまなかつた。東ローマの減亡と共にその古典學者がイタリー諸都市に流入した。フローレンスでは古代ギリシアのプラトンの學校にならふてプラトン・アカデミヤが設立された。今日までギリシア、ローマの古典の多數が保存せられてきたのは文藝復興期の蒐集のおかげである。そして驚くべきことはこの古代熱が單に貴族や富人や學者の限られた範圍だけのものでなく、國民運動だつたことである。ローマ最大の詩人タツソーの作品は同時代最下層の人々も手にしたといはれる。  かように古代への復歸が美術文撃政治學等の理想となつたが、實は古典は手段となつたにすぎないのである。古典の探求を通じて新しい國民精神が創建されたのである。單純の古代復歸でなく新しい文化の創造であり、近代ヨウロッパ精神の生誕だつたのである。  文藝復興期のイタリー人は特異の風格を有している。大膽、機知、自己信頼、冒險、活動欲、功利などの特色がいちじるしい。諸都市では僭主間の簒奪が流行し、目的のために手段を問はないといふ風がある。意識的打算と強烈な實行力が結合する。僭主の宮廷には才藝の士が集合する。才藝の士は才藝の故にのみ頭角を露はすことができる。僭主は全然の實力主義者で、才幹と惡辣が優位を占め、必要の惡は許すといふ極端の現實主義である。冷靜の打算は恃むべきも激情は實用なしとせられる。善と惡との不思議な混淆がある。出生の嫡庶については無關心である。(不世出の天才レオナルド・ダ・ヴインチは庶出である。)個性や才幹が至上の標準である。正統性などは貴まれない。傭兵の長も王となる。派閥鬪爭、陰謀、裏切、殘虐な自己中心主義、テロリズム的權力などが慣行する。チエザレ・ボルヂヤのやうに、自己の權力欲と快樂主義のために、恐怖に値する徹底した利己主義を遂行する僭主が現れる。しかし他方において學藝への深い讃美や公共事への盡力や名譽を守ることなどが尋常事として行はれる。神聖の事物を嘲笑し、教會と僧侶に辛辣な諧謔を試みて愉快がり、破門などを恐れない。無類の活動があるかとおもへば無鐵砲な浪費がある。  要するに同時代は人々が仕事を生命とし、自己の精神能力に信頼し、最高限にこれを發揮することを競ふた、世界史上に最も珍しい雄剛な時代であつた。  さればイタリー文藝復興期のヒューマニズムは哲學者の思索として生れるといふよりも、むしろ活氣溢れた現實の状勢のなかから生れたもので、むしろ抒情詩的氣分があふれてをる。だから哲學的體系となつてをらぬ、道徳的原理も確立してをらぬ。むしろ超越的道徳への嘲笑が現實道徳への輕視を伴うた時代である。宗教も大なる關心とならなかつた。北方のルネサンスの主要命題となつた宗教改革の氣運はイタリーに起らなかつた。後代の英獨のヒューマニストの到達した、神が人間に内在するといふ理神論的思想も現れるひまがなかつた。  イタリー文藝復興が近代歐州に與へた影響は偉大なものがある。その最大の遺産は、人間の自然性、自由、創意、個人の自覺、人間の主體性、個性、人類觀念、現實主義、近代的愛國心等で、それだけで十分であり、そこで切りひらかれたヒューマニズムは次第に世界史のなかで大きな流れとなつてきてゐる。 ###三、イタリー文藝復興におけるヒューマニズム  イタリー文藝復興期のヒユーマニズム思想の主要内要は次の如くである。 ####(1)主觀と客觀との分離  客觀を直觀し分析する人間精神の躍動は、神的豫圖だの奇蹟だのの教會的思想が力を失ふたのちはじめて可能となつた。現實そのもの、そのなかに現れる個性的なものを因果法則的に把握する近代精神は同時代のイタリーに生誕した。マキアヴェリは、法則は善惡と關係なしと、冷然と言ひ放ち、事實を集めて研究した。古代東方諸國が神秘主義的迷信と政治上の專制主義で主觀主義的迷妄を脱し得なかつた際に、古代ギリシア人が智識のために智識を愛し、客觀世界を分析し、人間精神の能動性をはじめて展開したのと同じ現象がこゝに起つたのであつた。  客觀の姿をまざ/\と見ることは同時に新鮮な主觀的精神を生成させるものであつた。人間の主體性が強く自覺され、精神的個性が成立し、人間の能力に對する自信が高まつた。イタリー文藝復興期を飾る幾多の天才は、人間は欲して成らざることなしといふ確信に立ち、奔放に個性を發揮した人々であつた。 ####(2)人間性の復活  文藝復興期のイタリー人は人間性の自由な發揚を妨ぐる超越的なものに對して鬪爭した。教會の教説、組織、僧尼を憤懣し嘲笑する言葉が當年の書籍に非常に多い。かれらが宗教改革に向はなかつたのはあまりに教會や宗教そのものに尊敬を失つてゐたからだ。それらに對する否定は人間性の再發見といふ積極的な形で提出された。  ヒューマニチーとは人間性又は人間における自然といふ意味である。人間の自然を審するものと戰ひ、人間性の解放を要求した。彼岸でなく此岸に人間の生活があるといふのがかれらの信條である。  かれらはまづ人間性の基本内容を感性だとして把握する。理性は二次的地位をしめるにすぎない。理性はひとりでゐると往々超越者と結びつく危險がある。しかしかれらは理性を排撃してしまふほど狹い心をもたない。理性もやはり人間的自然の一部だとする。理想の設定には理性のはたらきの大きいのをみとめる。しかしヒューマニストの理想は人間中心的、現世的、自然的、人間内在的であり、價値の標準はあくまで現世的である。かれらは古代人の人間主義を憧憬し、そこに美的調和の實現していたことをみとめる。人間のあらゆる能力が調和的均齊的に生成し發展するところに美があるとする。人生は藝術であらねばならぬとする。かれらにとつて理想的人間の型は、感情豐かで、精神的に新鮮で、個性を極度に發揮し、かつ美しい健かな肉體をもつた人間である。 ####(3)個性の發揚  ヒューマニズムは人間の能力が極限まで發揮されるところに最高の美があるとする。人間はそれ/゛\特殊的、具體的、個性的、多樣的存在である。かゝる獨創を可能ならしめるために自由がなければならず、またかゝる獨創のなかにのみ眞の自由がありうるとする。  文藝復興期には有能者のみが地位を得た。僭主たちは最高才能發揮者であつた。僭主の宮廷に集合する官僚も文人も才幹がなければ一日も地位を保ち得なかつた。諸都市間の競爭が都市の個性を琢いた。ある都市から追放されて他の都市に流寓する政治的亡命者にとつては、追放が個性を琢く機會になつた。  人間の能力に對する最高の信頼は十五世紀初頭の天才アルベルチの「人間は意欲さへすれば自分の力一つで何でもできる」といふ逞しい言葉にも現はれてゐる。 ####(4)萬能の人の出現  イタリー文藝復興期は人間が最高の人間の型を作り出して見せた、驚嘆すべき時代であつた。あらゆる教養に通ずる一切具足の巨人のいくたりかが出現した。これはまさしく人間は欲しさへすれば何でもできるといふ強烈な自信の現實化であり標本化である。活字引的腐儒にあらず、ディレッタントにあらず、あらゆる肉體的精神的領域の獨創であり、藝術と科學との結合、新鮮な直觀力と深遠な法則的構成力との結合、美と眞との融合を表現する個々の人格が現れた。  古典學者は最大級の多藝多能の士たることが要求せられた。古典喜劇の飜譯者は同時に舞臺監督もやり、古代地理學の解説者は近代宇宙觀の通曉者でなければならぬといふ風であつた。  ブルョクハルトは萬能の人アルベルテイを驚嘆を以て描いてゐる。それによると、彼は體操や運動競技や乘馬に熟達し、師匠なしに音樂を學んで獨創的な作曲をなし、物理學、數學に通曉し、繪畫彫刻に達し、偉大な建築家たる本職のほかに散文詩、小説、政治論のすぐれた著作を殘し、他人のよき製作を心から喜ぶと共に、自己の最大の發明をも惜氣なく無償で人に傳授する。本能的に美に感動し、病氣のときも美しい自然をみればそれがなほつた。美しい氣品權威のそなはつた老人を自然の悦びとして貴み、肢體完備した獸類を見ても好意を感じる。而もこのアルベルチその人の人格の全體を一貫するものは極度に集中された意志力であつて、油斷や怠惰は一生のどの瞬間にもない。人間の能力に對する絶對の自信とやむ時もない刻苦精勵が文藝復興期の諸天才の獨創的個性を作り出したのである。  アルベルチにもまさる萬能の人は周知のやうにレオナルド・ダ・ヴィンチである。かれは偉大な藝術家であると共に又偉大な自然科學者である。かれは自然を愛し、それへ突入し、その本質を把握する。「人間は自然の奉仕者にして又解説者である」といふその言葉のとほり、かれは人間と自然との偉大な媒介者であり又統一者であつた。かれの十三册ほどのノートには後に來るべき科學概念の先見がある。それには飛行機や戰車の理論もすでに記されてある。かれは觀察や實驗による近代學風の創設者である。しかも偉大な藝術的直觀力にあふれている。かれは單なる古代復歸者でなく近代精神の父である。  文藝復興期ののちにはもはやかかる萬能の人の型は現れていない。ゲーテはいくぶんそれに近かつたが、文藝復興期の諸天才に比すれば知識累積的であることをまぬかれない。 ####(5)自然觀  自然を人間外のものとかんがへたり、自然の秘密のまへに尻込みしたりする中世教會の反自然科學的傾向や自然を疎隔する風潮も打破された。萬物は生き且つ美であるといふのが文藝復興期の代表者たちの感動であつた。自然と人間は同一根源に出で、人間は自然の最高發展者であり、自然の解説者であるとせられた。かれらは直觀によつて自然の本質に肉迫するのみならず、觀察と實驗によつて法則を發見する喜びを知つた。同時代のイタリー人は自然科學において遙かに北歐人を拔いていた。コペルニクスもイタリーの自然科學の先蹤なしにはその地動説を確立し得なかつた。自然を人間の内なるもの、人間に親しきものとしてその美を鑑賞したり、動植物の實驗所を設けて觀察に從事したりしたことも此の時代の特色である。 ####(6)人類と文化  此時代の人々は現實主義者であつたから國家や民族のやうな最大の現實的條件を無視しなかつた。かれらは近代的な愛國者であつた。イタリーの分裂状態、外カ侵入の危險、道徳的頽廢への憂慮、そしてイタリーの統一と強國化の要求、これらはダンテよりマキアヴェリに至る人々の夢寐忘れざるところであつた。しかしかれらは單純な國家主義者、民族主義者でなかつた。ヒューマニズムは人間の人類性を肯定する。個々の民族性に徹底することにより、それを超えた世界同胞の觀念があらはれる。人間は人間としてどこの國でも同じである。人間の本質はあらゆる人間に内在する普遍者であり人類的なものであるといふ認識に到達する。  人類と民族とは衝突しない。ヒューマニストは自然と個性を尊重する。民族は社會のうち自然的な社會として發展した。民族の個性は生かされねばならぬ。民族個性の綜合のなかに人類的過程があり、そのなかに人間の普遍的規定たるヒューマニチーが展開する。普遍と特殊との統一はむしろ個性を抛棄せざるところに生れる。人類も社會も歴史も人間外的を超越者でなくして、間に内在するのであり、けつきよく個人のなかに、個性の發展のなかに含まれるのだとせられる。  ヒューマニズムは人間文化を讃美する。人間は文化を有する故に人間であり、文化は人間の存在理由である。だからヒューマニズムは人文主義なのである。文化もまた超越者でなくして、人間内在的であり、したがつて此岸的で、生成的、青年的、美的、均齊的でなければならぬ。文化はあらゆる種類の人間に通ずる普遍性をもつから、したがつてヒューマニズムはこの面よりも人類的世界的なのである。 ###四、マキアヴエリの政治哲學  イタリー文藝覆興期にむらがり起つた諸天才のうち、政治哲學の方面については、鋭利な刃物のやうな力で人に追らずにおかぬニコロ・マキアヴェリ(一四六三-一五二一年)がある。近代政治學の創設者はかれだといつてよい。  かれはフローレンスの貧乏だがとにかく貴族の家に生れた。僭主メヂイナが追放されてフローレンスが共和政體を回復してゐた約十年間に官吏となつて重用され、外國に使節となつて赴いたことも屢々あつたが、メヂイナ家の政權回復後には一年ほど追放に處せられ、更に謀反の罪名で投獄され拷問の苛責をうけたなどのことがあり、出獄後には都の西南十五キロほどの山村に四人の子供を抱へてマキアヴェリ夫婦は五年の侘住居をした。この侘住居の間に出來上つたのが不朽の名著「君主論」だ。古代中國人は、憂患極まりて名著を出すことを指摘しているが、この「君主論」もさうした血のにじんだ書物である。其後、マキアヴェリにも再び日の目がめぐつてきて官途に起用され實際政治にも參加したが、晩年は著述に興味が集中したらしい。その「ローマ史論」「フローレンス史」などは史學上の名著で、今日讀んでみても新鮮な興味が湧く。(多賀善彦、本名大岩誠氏の飜譯を重ねて成就した名譯で、その註解も立派なものである。)  ニィチェは「偶像の薄明」のなかで古代ギリシアのツキヂデスとマキアヴェリを同列におき、この二人はいさゝかも自らをごまかさず、理性の中にでなく、道徳の中にではもちろんなく、むしろ現實のなあkに理性を見ようとする絶對意志があるといひ、又プラトンとツキヂデスとの差違は現實に對する勇氣であり、プラトンは現實のまへに一個の臆病者で理想に逃げ込むがツキヂデスはしつかり現實自身をつかまへ、從つて客觀界の事物をも支配する、彼にはギリシア人に特有な不敵な現實主義と不道徳主義がある。マキアヴェリにはこのツキヂデスと同じ精神があるといつてゐる。ブルックハルトは「伊太利文藝復興期の文化」のなかで、マキアヴェリの政治的客觀主義は時として恐怖に値するものがあり、彼の諸著には直接の情熱が缺けてをり、道徳に信頼していない、然し彼の最後の關心は國家にあり、彼はイタリアの統一を欲求する愛園者であつたとなしてゐる。マキアヴェリは、政治鬪爭は絶對的鬪爭であるから學問はかかるものに役立たねばならぬとする。政治の優位、現實への關心、後者への絶對信頼がかれにある。かれの不朽の作「君主論」には中世の暗い宗教氣分は全然ない。容赦なき意志、不屈の精力、計畫をめぐらす頭腦、打撃を加ふる手、突進する勇氣、これらはかれの讃美おかざるものだ。彼は生粹のルネッサンス人だ。  マキアヴェリは權力哲學の主張者で民主々義者ではない。かれは政治を權力問題として解してその本質を抉り出さうとする。彼は理想家でなくて冷酷な智力的なリアリストであり、主觀的空想を排し、現實を客觀的に分析する。現實のなかで發見された政策は現實を無視した主觀的政策より價値があるとする。彼は美辭麗句を排し、事實それ自身を尊重し、多樣な材料のなかに對象の精確な姿を見出しこれを生々と感覺的に描寫する。想像で書くよりは事實の背後の眞理に徹するを可とするとふのは彼の言葉である。被は現象の中に實在が生きてゐると信じたのであらう。彼は勤勉な讀書によつて事實を蒐めて研究したから皮相な現實主義者でない。彼は歸納的に法則を得ようと努力する。彼の著書には屢〻「それは一般的法則と信じてよい」といふ言葉がある。その法則たるや善惡とは關係がない。人は抵抗し難く法則に從ふ。かれは人と環境との關係を認識する。時と境遇に順應して行動すれば榮え、その反對の場合には反對の結果を生ずる。この竣嚴な客觀主義と現實主義とは全く近代的である。  彼は人性を度外視せざるを秘訣とせよと教へる。人性的觀察はかれの理論的主柱の一つである。彼は性惡論者だつたといひうる。人間には三種ある。自ら理解する者と、他人の説明をきいて理解する者と、それを聞いても理解せざる者である。自ら理解する者は指導者である。君主は指導者の指導者であるから人性を無視してならぬとする。彼はルネサンス人らしく、個性の完全な發揚を欲してをり、それを君主や指導者において見んと欲するものである。政治をする者の第一に心得べきことは、人はすべて惡人で、機會さへあれば惡事をするものであることを知つておくことだ、とかれは言ふ。人は忘恩、變心、僞善、怯懦、貪欲なもので、過去よりも現在を重んじ、現在さへよければ舊恩は忘れてしまふ。恩返しより復讐の方が樂だ、何となれば恩返しは物入りだが、復讐は得をするからだなどとかれは言ふ。尤も人は善惡ともに徹底的になりきることはできないもので、兇惡な人間でも大事の場合には氣おくれや躊躇をする。但し善人はわけもなく惡人に轉じうるもので、有徳の評判をとつた者が野心や貪欲のため忽ち盲目となり惡徳に身を委ねることが少くない。今まで人民の味方であつた者が急に人民の敵になることがある。これはそれまで猫をかぶつていたわけでなく、今まで人性の長所が發揮され今はその短所が發揮されているわけである。人は必要に迫られてのみ善事をなすものである。だから政治をする者はまづかゝる人性を把握してかからねばならぬ、とかれは言ふ。かれは又言ふ、君主は善良、廉直、敬神を裝ふがよい。人民はたゞ外觀と事物の結果を見るのみ。而も世界の大部分はかかる人民より成る。人は自負の念を有し甘言に欺かれ易い。餘りに他人の歡心を買ふ者は輕蔑され、餘りに殘虐であれば人から憎まれる。避け難き惡徳を行ふに躊躇してならぬ。一見惡しく見えることでもそれを行ふことによつて平和を生ずることがある。君主は寛仁の名を博するためには浪費せざるを得ないが、それはけつきよく人民から強奪せねばならぬから、寛仁の徳ほど消滅しやすいものはない。獅子は係蹄に陷る危險があり、狐は狼の害がある。賢明なる君主は獅子の勇氣と狐の狡猾をもつてをらねばならぬ。現代人の生活法は人道の命ずるところとは異る。一般に從はずして人道に從ふ者は滅亡する云々。彼はまた「元來人間はその本來の物欲によつて恰も未知の陸地や海洋を探すのと同じ危險を冒しても新しい方法や秩序を求めようとするものだ」とも言つてゐる。マキアヴェリの人性の解釋が正しいかどうかは別として、徹底的に人性なるものを政治學や歴史學の重要な契機としたのはマキアヴェリがはじめてである。  彼は「國家は權力である」(君主論)と教へる。かれはいかなる道徳的考慮によつても煩はされない純然たる權力政治を主張する。かれは古代ローマ人の權力主義を讃美する。ローマ人は重大事局に對して中途半端な處置をしたことがない。施恩か鏖殺か、いづれかの手段を選んだが、それは人間が愛情か恐怖心か何れかにうごかされることが最も強いからだと論ずる。被征服者の手足をもぎ取つて一切後顧の憂をなくするか、或ひは逆に山はど恩惠を施して相手が自己の運命を打開しようにもその道がないやうにしておくことが征服者の秘訣だとする。君主の必要な殘忍はむしろ仁慈である。自己の防衞のために一度だけ大虐殺を行ふのは虐行の善用であり、時と共に漸次に行ふごとき處行はその惡用である。人民より愛せられるよりは嫌惡、輕蔑せられぬことが必要で、むしろ畏怖せられる方がよい。不正直の君主の方がむしろ大事業をする。腕づくの約束はそむき易いもので、殊に國家存亡の際には危險をのぞくために破約はやむを得ない。約束を破ることは何とでも辯解できるが、國が亡んでしまつては取り返しがつかぬ、獨立を失つた民族は忽ち弱化するものだ、などと彼は言ふ。弱國は決斷力に乏しいもので、いつも長評定して取り返しうるものも取り返せなくしてしまふ。政治には動搖が一番いけない。方針さへきまれば口上はどうでもよい。又、強者は敵を必要とする。敵がある限り自己を琢きうる。敵がなくなつたら故意に敵を作り出すがよい。激敵の内訌にたよりすぎてならぬ。その場合には弱い方に少し味方するがよい。すると内訌者の勞力が均衡して再び爭ひがなほ續くものである。かやうにマキアヴェリは人性論を基礎として政治上の權謀術數のやむを得ないことを説く。  マキアヴェリは人民の意義について彼一流の評價をする。大衆には弱氣や雜然さがある。「民衆の本性は卑屈極まる奴隷か、さもなければ倣岸不遜の支配者である」とかれは言ふ。大衆は首領がないと何一つできぬ。かれらは移り氣で自分で死刑にした人のために泣くことがある。しかし忘恩むら氣は人性で、それは君主の方が人民よりもひどい。人民は君主よりも情誼に厚く、事物判斷に直觀力があり、善良な服從性がある。亂民は改俊するが暴君は劔で殺す外はない。暴君放伐から自由が生れる。しかし人民が健全ならば國は亡びないが人民の腐敗した國はどんな偉人が出ても救ひやうがない。ローマで肯定が自由を蹂躙し得たのは人民が墮落していたからである。人民腐敗の原因は何か、それは國内の不平等であると彼は言ふ。  マキアヴェリはすぐれた理論家として、屢〻現實のなかから辨證法的契機を發見する。惡から善が生れる。ローマにおける人民と元老院との反目が却て共和國の隆昌と自由の原因となつたことをかれは指摘する。新しい平和は新しい爭ひのはじまりだ。どんなに惡いことでも始めは善かつた。又シーザー打倒運動は、共和政治保持が目的であつたのに、却て共和國の破壞を早めた。ある行爲が目的と反した結果を生むのは、内容がそれに熟してをり、それによつて却つて舊物が除去されるのであるとする。現實そのものの内部における辨證法を生々と把握するところにかれの近代性がある。  かれは優秀な歴史家であるが、現實そのものや人間の現實的活動性の方を歴史的過去よりも重んずる。ヘーゲルが、人は重大な瞬間には歴史的前例を學ばず、獨自に行動すると言ひ、ニィチェが、非歴史的な力が新しい歴史を創造すると言つたのはマキアヴェリと同じ思惟領向である。マキアヴェリの讃へた徳 Virtu とは傳統的倫理觀念に捉はれない人間本然の創造力の發揚の謂である。  マキアヴェリは單なる策謀主義ではなくして、國家や政治や民族の強烈な意義を實感を以て描いてゐる。かれは當時の内亂や外國軍(フランス)の侵入によつて苦しめられてゐる祖國の状態に憂憤し、イタリーに強固な統一政府を樹立するを念願して、その愛國の悲願を現實主義的な權力哲學で解決しようと欲したのだといはれる。後世、かれの權謀術數論の方が人の興味をひき、マキアヴェリズムの名で呼ばれるやうになり、非難者と辯護者が相半ばする。かれの思想は屢〻反動政治家によつて利用せられる。最新の例はヒットラーである。民主々義の時代には彼の著書は光を失ふ。けれどもその抉ぐるやうな人性論は人間の秘密にふれるところがある。人間が君子になつてしまはないかぎりマキアヴェリズムはやはり政治哲學の一つの潮流たる地位を占めることであらう。ともあれ彼の現實主義その他は文藝復興期の風潮を最もよく代表する。 ###五、近世ドイツ浪漫主義哲學におけるヒューマニズム  イタリー文藝復興期ののちヒューマニズム思想がふたたび爛漫たる展開をしたのは十八世紀末から十九世紀の二三十年代に至るドイツ浪漫主義《ロマンチシズム》においてであつた。こゝにそれについて略説しておく。  一七八九年のフランス革命と、それに相次ぐヨウロッパ諸國のブルジョア革命は人間の思想にも劃期的變化をもたらしたが浪漫主義思潮も前代の啓蒙思潮の克服としてあらはれた。即ち啓蒙思潮の理性萬能に對する理想主義的反動、またその主知主義合理主義にたいする感情殊に美的感情の優位の主張が特色的である。元來の意味の浪漫主義は主としてドイツに興つた文學上の運動ないし傾向を意味したが、單なる文學運動でなく、最初から世界觀的人間觀的背景と結びついていた。シュレーゲル兄弟の唯美主義、スピノーザ的なゲーテの自然觀、フィヒテの自我の形而上學、世界をロゴスの辨證法的發展とみるヘーゲルの體系、ヘルデルの歴史哲學における發展の思惟、フムボルドの美的倫理學等々、それらに溢れている生命、自由、個性、美、理想、絶對者、ロゴス、思惟と實在の同自性等についての理念は後代への貴重な精神的遺産となつたものである。  それらのものの基調にはヒューニーズムが流れている。人間性の能ふかぎりの展開がその根本要求である。かれらは人間を感性的なものとして解する。かれらは自然を尊重することルネサンス人の如くであり、人間の自然の最も根源的なものとして感性をとりあげ、原始的生感情に一切文化の原動力を見出す。理性もまた血の通はぬ精神的なものでなく、それ自身また人間の自然であるとす。感性的なものとの美的調和が人間の理想の眞内容である。理想は超越的な當爲でなく、人間に根ざし、人間の自然性をあますところなく展開し、人間的な價値を産出するものだとせられる。かれらには根本惡の觀念や肉體呪咀や彼岸逃避などの悲觀主義がなく、暖い人間愛のもとに、人間を信頼し、人間文化の繁榮を信ずる樂觀主義に立つ。あらゆる能力の美しい均齊的發達をした新しい人間像が憧憬せられる。藝術品のごとき、教養のすぐれた、生命感に溢れた完全人間になるために、教育の意義が新たに高く評價せられる。個性が尊重され、獨創性の偉大な個性すなはち天才が崇拜される。個性の發揮は社會とつらなり、人類とつらなる故に、ヒューマニズムはおのづから世界主義となり、又、社會的人間のみが價値ありとする。しかし民族を無視するのでない。ヘルデルは、民族もまた人間の自然であり、諸民族の個性の發揮を通じて世界はヒューマニテーへ向ふとなした。  人間の自然性の根源をなすものは生命にほかならぬとされる。さればフムボルトのごときは、生命衝動を宇宙原理にまで高める形而上學的思辨を展開した。全宇宙はこの生命衝動によつて動くのであり、人間はその内面からの生感情によつて、全體的に充實した人間へ向上せんと努力するのであり、無限なるもの神的なるものへ高まらんとする憧憬に充たされる。この個性完成への衝動は宇宙的なものであり、活動と自覺による個性の形成は宇宙の内在的で極限的な目的であるとされた。  浪漫主義哲學における大きい産物の一つは歴史哲學であつて、内的な自己發展としての發展の觀念、辨證法、自由と必然、矛盾、創造としての發展段階等の責重な理論が形成されたが、歴史がヒューマニチーの展開だといふ思想もまたかれらによつて(主としてヘルデルによつて)提出された。 ###六、近代生哲學における人間主義  十九世紀の後半になつて、在來の主知的認識論や普遍妥當的論理主義に對抗して擡頭した哲學の一潮流に生哲學がある。生の直接體驗を通じて實在の豐かな具體的内面を把握するといふ主張をもつ。生哲學をただちにヒューマニズムの主張とすることは困難である。ヒューマニズムは文化を基本要求としているが、生哲學は文化といふことよりも、さらにさかのぼつて人間の活動的で野性的な本源の眞を蘇返らせようといふ強い要求に立つている。しかし人間性の發揚といふ人間主義的主張において生哲學はヒューマニズムにおける本來的なものを代表するといひうると思ふ。これまでヒューマニズムについて述べてきたから、生哲學についても一言しておく。  生哲學の主張者にはニイチェ、ベルグソン、ジェームス、ディルタイ、ハイデッガー等があり、その主張には詩人的なもの、學者的なもの、實用的なもの、又いはゞ左翼的なものと右翼的なもの等種々の傾向をふくんでいる。しかしその根本的一致點として次のことがあげられるであらう。  (1)生哲學は、實在を、豐かな具體性をもち、内的生命に溢れ、流動してをり、絶へざる創造のなかにあると考へる。あらゆる存在は生きている。死物は存在することができぬ。生命は人間を含んでの全實在の核心であり、本源的動力であり、永遠なる自己運動の泉源である。生命の本質は力であつて、力は相互に爭ひ、それを通じて生産、創造、發展がある。實在はかゝる力の總和である。  (2)かゝる實在の本質を捕へるのは悟性的分析的論理的知識によるのでなく、直觀、體驗を通じて可能である。思惟は靜止した世界を捕へるけれども、流動する實在を捕へえない。生成、發展は、その内部に躍入する直接體驗によりてのみ把握しえられる。悟性的認識は既に生成したもの、即ち一定の靜止状態に達したもののみに可能である。主觀客觀の差別を超越し、むしろ兩者が不即不離に合一したときに事物の眞理が人間に明かとなる。  (3)生哲學は人間が價値を創造するのだと主張する。人間の生に有用なるものとして彼の價値づけた事物のみが人間にとつて存在する。人間が人間的意義を與へた事物のみが認識せられる。かような評價を與ふる行爲は一の創造的行爲である。認識のための認識を辯護する者は、眞理なるが故に有用なのであつて有用なるが故に眞理なのでないと言つて生哲學を攻撃する。しかし人間から離れ、有用物として人間の認識にのぼらない眞理、かゝるものの探究は餘剩的奓侈的な觀念の遊戲である。事物の眞理性は有用性とはなれて意義がない。認識も生命意志の一發現である。生命意志が増大すれば認識欲も増大する。認識は被認識物の有用性によるとせられる。  (4)生哲學は實在を永久靜止の實體でなく最も過渡的な瞬間にも生命の躍動があるとする。形而上學はこの美しい、生命に溢れた現實を何か假りの世界でもあるように考へ、どこかに靜止的な、矛盾のない世界があるかのごとく空想する。生哲學はかゝる形而上學的態度に反對する。純粹經驗の背後に物自體だとか實體とかいふものは存在しない。やむときなき生命の流れ、人間の行動を以てするその把握、そこに生ける實在があるとする。  (5)生物學は禁欲的被岸的厭世宗教に反對し、人間の現世生活を讃美する。人間がその能力を發揮し、眞、善、美、偉大などの價値を創造し、社會をより高い段階に向上せしめるところに人間の存在價値があつたし、今後もさうであらう。かゝる價値創造の本源力は本能、衝動である。本能、衝動を承認する樂天家のみが人生を明るい、かゞやけるものとする。  (6)生哲學は行動の優位を主張する。行動は必要、思辨は奢侈である。行動から分裂した知識には價値がない。理論は行動の結果として生れるもので、次の行動を伴ふ場合にのみ價値がある。理論は刻々に古くなるが、現實は刻々に新しくなる。人間を現實の主人たらしめるのは行動のほかにない。  (7)生哲學は過去よりも現在を、現在よりも未來を貴しとみる。  (8)歴史を創造するものは傳統でなくて或る程度非歴史的に感覺しうる能力即ち本源的な人間の活動性である。健康なるもの、偉大なるもの、いはゞ眞に人間的なものの生長しうる基礎がそこにある。この非歴史的なものは生命を産出せしめる四周の大氣に似てをり、この大氣が無くなれば生命は再び無に歸するであらう。  近代文明の煩琑な劇場的色彩に疲れた人々にとつて、生哲學は人間の人間への復歸を刺激する力をもつてをり、人間本來の力や自然性の發揮へのはげしい欲求としてヒューマニズムの本來の一部面を代表するものである。 [#改ページ] ##第六章 ユートピア文學における共産主義思想 ###一、概論  文藝復興によつて個人の自覺がはじまり、基本的人權の要求は社會契約説となつて發展し、フランス革命において一應その實を結んだ。しかし文藝復興は單に個人の自覺をうながしたばかりではない。貧富と階級分裂といふ社會的現實に對する批判とそれに關する理想の設定が當然有爲な思想家の頭腦にのぼつてきた。まづトマス・モーアの「ユートピヤ」の一篇となつて現はれ、カムパネラの「太陽の都」、フランシス・ベーコンの「新アトランチス」等のユートピヤ文學が十七世紀に盛となつた。十八世紀末より十九世紀初頭にかけてのサン・シモシ、フリーエ、オーエンを三大代表者とするいはゆるユートピヤ社會主義は科學的社會主義の前驅をなすものであるが、十六世紀以來のユートピヤ思想の繼承でもある。したがつて近代の社會主義の一つの源泉はユートピヤ文學にあるといへる。  モーアの「ユートピヤ」其他の作品を單なる假空小説、幻想、夢物語として片付けるべきではない。仔細によめば、そこに  (1)私有財産及び階級支配に對する嚴肅なる批判の存すること。  (2)人類と社會とがいかにならねばならぬかについての、作者の熱烈な倫理的主張や世界觀があること。  (3)生産手段の共有、萬人生産者となること、肉體的勞働と精神的勞働との對立の消滅、各人が能力に應じて勞働しその需要に應じて配分されること等の、將來の共産主義社會の原則とせられることがすでに明確に把握せられていること。  等の特長を見出すのである。善美なる人類社會を欲求する熱烈な改革者の氣魄がそれらに流れている。それらが空想の翼を借りて、小説の形式をとつたのは、社會主義運動の具體的な近世的條件――客觀的には生産力の發展、主觀力としては勞働階級の發達等――がその當時未だ存しなかつたからである。複雜な人生の現實を深く顧みないことや、人性に惡を見ずして善のみをみること等において、ユートピヤ思想は多分に空想的なるをまぬかれないが、人生の無用の複雜と人性の惡との根源を私有財産や階級支配に求むることはまちがつてはいない。 ###二、トマス・モーア(一四七八-一五二五年)の「ユートピヤ」 ####(1)プラトン理想國思想の復活  プラトンが國家篇を草して共産主義的理想國の思想を唱道したのは、ギリシァの社會が内には私黨的個人主義の勃興、外よりはマケドニヤ其他の強國の重壓によつて土崩瓦解せんとする危機に當面していた時代で、かれの憂憤の發するところこの偉大な思想となつたのであり、それは實現不能のものであつたが、プラトンはこれを空想とかんがへず實現可能と信じ、救世者的情熱と實行的氣魄をもつて之を理論の形で表現せんとした。十六世紀のイタリーで文藝復興によつてギリシァ古典の熱烈な探求がはじまるや、プラトンは最大の崇敬を捧げられる一人となり、その國家篇も當然研究せられた。ギリシァ、ローマの古代が過ぎ、ヨゥロッパが封建的秩序とキリスト教思想の支配する中世に入つてから、理想國の如き奔放な思想は芽生へるよしもなかつた。キリスト教徒にとつての理想國は神の國であるが、それは地上の國と異質的に對立するものとして竣別され、むしろ後者の否定を通じて、すなはち現實から逃避し生の彼岸なる死後の世界にあるものとせられ、一切の思想の基準は宗教におかれてゐた。モーアの「ユートピヤ」はプラトンの理想の復活を意味する。もちろん單なる複寫でなくして新しい時代の特徴を帶びた創造的作品としての意義と價値をもつて生れた。  プラトンの描く理想國とモーアのユートピヤとの間には、その思想においても、構造においても、大きい差異がある。第一にプラトンは消費者的な貴族主義、モーアは生産者的な民主々義に立脚する。プラトンでは哲學者及び守備者が支配階級であり、これらの間に財産の共有、婦人の共有等の嚴格な共産主義の組織及び倫理が行はれ、生産者たる一般民衆は生存競爭のなかに放擲せられている。之に反してモーアは萬人が農業勞働其他の生産勞働に從事すべきこと、即ち勤勞が社會の基本であること、國家の主要階級が生産者であるべきことを主張する。又プラトンが自己の理想國思想を現實化する熱情のもとに幾多の努力をしたに反し(無效であつたが)、モーアは自己の思想をたゞちに實現すべからざるものとかんがへ、その實行についてなにらの興味を示さなかつたのは兩者の個性の大きい差違である。  時世に深慨するところあつて共産主義社會の構想に達したことにおいては兩者とも同じである。モーアは英國ブルジョア新興期の營利主義が農村共同體を破壞し社會の混亂と道徳的腐敗をまきおこすのを目撃してその憤るところが「ユートピヤ」の一篇となつたのである。プラトンは千古を絶する大哲人、モーアは聰明な政治家でストア哲學的教養が淺くないが哲學者としての素質や修養はプラトンと較ぶべくもない。「ユートピヤ」の一篇はプラトンの國家篇の先蹤なくしては生れ得なかつたであらう。(この意味で後者はつねに各時代人に偉大なインスピレーションを與ふる政治哲學の最高の古典である)。 ####(2)モーアの一生、その社會的環境  トーマス・モーアは一四七八年に生れ、一五三五年、五十七歳にして死刑に處せられた。彼は裁判官の子としてロンドンに生れ、幼時より聰明で、オックスフォードを卒業し、辯護士となり二十四才にして代議士となり、政府當局に反對したため數年間孤獨と勉學に暮らし、後、へンリー八世の殊遇を以て最高の司法官となり、下院議長や總理大臣の地位にまですゝんだ。へンリー八世が皇后を離婚し、一宮女と婚したのをローマ法王が非合法なりと宣言し十日以内に取消さねば破門すると通達してきたのにたいし、へンリー八世はこの破門命令を無視し、新教を英國の國教化し、自ら英國教會の長となつた。モーアは宗教上寛容主義者だつたが、ローマ法王の權威を信奉してゐたので、へンーリ八世の皇后離婚の正當性を認めなかつたため死刑を宣せられた。その死に際しての從容たる態度はローマの哲學者セネカにも比すべきで、友人や子供たちと快活に告別し、首切役人が當時の慣習に從つて「職務上失禮おゆるし下さい」と言ふと、彼は「いや現世で未だ誰も與へてくれたことのない最大の恩惠を君は私に與へてくれるのだ」と答へて首をさしのべて斧で切られた。  モーアの學生時代には海のかなたのイタリーでおこつた文藝復興の波がオックスフォードにまで押し寄せてきた。一四八八年に優秀な若い英國學徒は海を渡つてイタリーに遊學しその最高の文化都市フローレンスでギリシア語や古典を學んだ。フローレンス歸りの若い學者トマス、リナカーがモーアにギリシァ語を教へた。偉大なヒューマニズムの學者でカトリック支持であつたが當時の農民間の共産主義運動に活發な興味と同情をもつたオランダのエラスムスはかれの親友であつた。  當時のヨウロッパはアメリカ發見、印刷術發明、コペルニクス地動説、ヴァスコダガマの新航路發見などがあり、地理的にも精神的にも未知の世界が出現し、人間の活動的精神が緊張し、社會上にはブルジョアが新興して國際的國内的に新情勢が刻々成立してゐた。歐洲の經濟的中心が地中海より太平洋沿岸に移つたため、英國は海上貿易に積極的に參加し、羊毛、織物、錫の輸出が盛となり、ロンドンは世界有數の大都市となつた。英國内では長期の内亂(薔薇戰爭)の過程に封建貴族が沒落し、チユードル王朝の權力が強化し、商工業に從事する新興ブルジョアは封建貴族と對抗する限りにおいて國王權力と妥協するが、その階級的衝動からして後者にたいしても無條件に服從するわけでない。國王權力は中央政府の權威を主張し、莊園やギルドの利益に代ふるに國家的利益を以てし、金を集積し、關税を高め、國内産業の發達を目標とするところのマーカンチリズムがあらはれだした。營利精神が地方の郷紳をもとらへる。この過程において舊物が殘酷に掃滅され、とくに農村では圍繞《エンクロージア》の現象がおこつて、農村共同體が破滅し、農民、大衆的に困窮化して村を去り都市にむらがるやうになつた。圍繞とは地主や教會が農村の共有地や小作地に垣をはりめぐらして、これを自己の私有地だと主張して農民をその中に入れないやうにしたことをいふのである。かれらはその土地で羊を飼ひ羊毛を賣る資本家的牧畜業をおこした。舊地主組織と農奴的小作制が廢絶し、小所有者が成立する現象もみられる。一四九七年にはトマス、フランモックの一揆があつた。羊毛の價格が商業的に騰貴し、土地を失つた農民は衣食に窮し、失業者が充滿し、盜賊や浮浪者が多くなつた。  此時代は初期の産業革命時代である。モーアの「ユートピヤ」はこの慘酷に進行する客觀情勢のなかにかもし出される舊物の破壞、富者の不正、大衆の窮乏に對する憤りのなかから生れたのである。そこには中世のギルド制や農村共同體に對する愛惜もあれば、國家の階級性にたいする峻烈の批判もあり、それを超えた共産主義社會への憧憬もある。「ユートピヤ」出版後一年にしてドイツではルーテルの宗教改革の運動がはじまり、更に原始キリスト教の共産主義原理を標榜する大農民戰爭がはじまつた。「ユートピヤ」じしんにも原始キリスト教思想の影響がふくまれる。  モーアの著作には當時の大航海者アメリゴ・ヱ゛スプーチの航海記が影響してゐるとの説がある。現代のアメリカといふ名稱はかれの名まへに起源しているといはれるほどに、彼は新世界やアフリカ航路で活躍した。かれの航海記にはカナリア島あたりの或る島で、君主なく私有財産なく且つ黄金の豐富な國を發見したとの記事がある。しかし「ユートピヤ」はヨウロッパの醇乎たる傳流を代表する著作で、アメリゴ・ヱ゛スプーチの航海記は一つの示唆となつたにすぎない。  要するにモーアの「ユートピヤ」は直接には當年の英國社會への憤怒と諷刺に發しているが、その中にはプラトンの思想やキリスト教の思想や發見時代の精神がふくまれてをり、それをこえてさらに近代的な社會問題の提出がある。 ####(3)「ユートピヤ」の梗概とそのふくむ思想  トーマス・モーアの「ユートピヤ」(一五一六年)は、モーアがアントワープ滯在中、ハイスロデイといふ航海者に逢ひ、その人が實見したといふ赤道の向ふにある一島ユートピヤ國の共産主義社會を話すといふ筋書である。ハイスロデイはギリシァ語に通じ、古典に詳しく、政治的識見にも富んだ人物といふことになつてゐる。第一篇には當時の英國の國内情勢や歐洲の諸君主や法王を論評し、一切の害惡の根源が私有財産にあるといふ批判的叙述がある。第一篇はいはゞ序論である。第二篇にユートピヤ國の地形、政治構成、都市、共産制、皆勞制、階級、共同食事、家族制、學問、倫理觀、戰爭、奴隷制、宗教、神觀、が詳述されてゐる。ユートピヤ國なるものは空想上の假構にすぎぬが、モーアはこれに托して自己の共産主義思想をのべているのである。  モーアが「ユートピヤ」一篇に托した思想を分析すると次の如くである。  (1)當年の英國社會に對する批判。――モーアは第一篇のなかで當時の政治や圍繞《エンクローヂア》現象による大衆の窮乏、借地人から高い地代をとつて放埒な濫賣をする郷紳《ゼントルマン》、食料の騰貴と金持の買占、盜賊の横行などを描き、私有財産制と貨幣の存する限り、いかに國内に無盡藏の富があつても、善良なる人民は窮乏のほかないことを論じてゐる。  (2)財産共有の主張。需要に應じて配分せられるといふ思想――ユートピヤ國では私有なるものが存在しない。私有財産を認める國ではたとへ國がいかに富んでいても、各人は自己に貯へがない限り、飢死せざる保證はないわけで、どうしても他人よりも自己の利益を計らざるを得ない。全財産が共有であるユートピヤ國では公共の倉庫に生産物が蓄積され、各人は需要に應じて配分せられるから、貧民も乞食もなく、各人は無財産でありながら各人而も富福である。ユートピヤ國人は金銀になにらの價値を認めない。金銀で便器を作つたり、奴隷を縛る鎖を作つたりする。ユートピヤ國の各都市は年一回首都に各三人の代表者を送つて物の生産及分配について討議し、一地方の剩餘をその缺乏せる他地方に送り何等の代償金を要求しない。各島は一家の如くである。この各人が能力に應じて勞働し需要に應じて配分せられるといふ思想は共産主義社會の基本原則である。  (3)萬人共働、生産者本位の思想――ユートピヤ國では萬人が農業をはじめその他の生産勞働に從事する。一日二十四時間を正確に分け、何人も六時間勞働の義務を負ふ。午前中三時間、午後二時間の休憩ののち又三時間勞働する。八時間を睡眠する。あとの時間は講演や技藝の研究などに使用する。婦人も又男子と同じに勞働する。學者や役員や僧侶は勞働を免除されるが、實際には彼等も喜んで勞働する。かれらは有用な勞働にのみ從事するから總ての物が非常に豐富にある。だからできるだけ肉體的勞働を輕減し精神的に修養する閑暇がある。かれらは現世の實の幸福はこゝにあると考へてゐる。モーアは現存國家の勞働について次のやうに批判する。現存國家では直に社會に勞力を寄與しているものは案外に少數で、民衆の半數を占める女子の大部分は怠情にくらしてをり、宗教家とか僧侶とかいふ遊食團體が大量に存し、富者、地主、貴族、それらの家來などは暴慢な浪費者であり、金錢が絶大の力を有するから不生産的な著修的産業が行はれ、必需品の生産が充分行はれない。しかも富は僅少の人間に分配されるのである。國中に富があるのに殘餘の人間は窮乏する。しかもこの貧しい大衆こそ前者よりも國家の富を享有する權利を有する。富者は強慾で公益を害するが、貧しい人々は單純で彼等の日々の勞働は國家に缺くべからざるものだ。私有財産ある眼り人類中の最大多數にして最善なる部分はつねに飢えていねばならない。こゝではモーアの生産者が國家の中心だといふ思想がある。  (4)階級。――ユートピヤ國では國王、區長、市長などの役人、僧侶、學者の階層があるが、それらは大衆から超越したものでなく、だれもそれに執着しない。かれらは選擧される。かれらは少數者のためでなく社會全體の幸福を考へて政治する。この指導者たちは國の最良分子である。こゝではいくぶん古代的なプラトンの哲人政治思想がある。  (5)家族と結婚。――ユートピヤ國では家族が社會の原形質である。都市は家族の集團より成る。女子は十八歳、男子は二十二歳で結婚し、女は夫の家に入る。夫婦間は原則として死による外に絶對に破壞せられない。男の子はすべて家にとゞまり、年長の家長を尊敬しその支配に服する。つまり大家族制である。しかし家族は社會から孤立した存在でない。各都市は四郡に分けてあり、各部の中央に市場があつて、各家族はその製作品を市場に持ち寄り、倉庫に蓄積する。各家族は必要品を倉庫から受け取る。いかなる物品も豐富に蓄へられているから誰れも必要以上に請求しやうとするものはない。又食事は各區の會舘で共同におこなはれる。  (6)奴隸。――ユートピヤ國では奴隷がある。國内で極惡の犯罪をして自由を剥奪された者及び外國都市で死刑を宣告せられた者が奴隷になる。他國のやうに戰爭の捕虜とか出生とかによるのではない。つまり奴隷は刑罰の意味のものである。こゝには古代思想の殘缺がある。  (7)法律。――法律は極く少く、その條文は平明である。他國のやうに到底讀みきれないほどの多くの法律や難解な法律はない。ユートピヤでは各市民が法律に通曉する。  (8)戰爭。――ユートピヤ國人は戰爭を野蠻なものとして嫌惡するが、自園の防禦や、暴逆な政治に苦しめられている國民を解放するとかのためには戰爭する。流血によつて勝利することを愚だとかんがへ、權謀術數によつて敵を克服することを最上とする。しかし國人は武人的な肉體的訓練を幼時より怠つていない。  (9)宗教。――ユートピヤ國では種々の宗教があるが信仰は自由であつて、どの宗教を信じてもかまはない。しかし全宇宙の本源神としてのミラといふ最高神を信ずることは普遍化してゐる。ハイスロデイがキリスト教のことを語つたら、熱心な研究者ができ、ついで多くの信仰者ができたが、かれらがかやうにすみやかにキリスト教を理解したのは原始キリスト教の共産主義倫理のためだつた。しかしそのうちの一人が熱心のあまり、キリスト教を以てあらゆる宗教に優越すると主張しただけでなく、他宗は全く瀆神の教へだと罵つたので嚴罰に處せられた。これは寛容の精神に背くからといふのであつた。モーアはこゝで中世的な不寛容《イントレランス》主義に抗議し近世的な信仰自由の權利を主張してゐるのである。  (10)倫理觀。――モーアがユートピヤ國の倫理としてのべているのは主としてストア哲學のそれである。徳と快樂とは一致する。徳とは自然に則して營まれる生活で、徳からのみ快樂と幸福は生ずる。健康が最高の快樂とせられるが、自覺的な精神上の快樂は最も尊敬せられる。そして宗教的、原理なしには眞幸福を探求できないとする。  (11)國家論。――モーアは財産を共有するユートピヤ國を最善の國家なりとするが、私有財産に立脚する國家を嚴酷に批判する。彼は國家を階級支配の機關なりとする思想をとつてゐる。現在繁榮してゐる國家は國家の名のもとに富裕階級が自己の安逸を貧りとる共謀機關であり、かれらがあらん限りの權謀を弄して發明工夫するのは第一に自己の不正に蓄積した富を安全に保有すること、第二に貧民の勞力をできうる限り僅少の金で雇傭し濫取するにある。國家の存續に缺くべからざる水呑百姓、坑夫、日雇人夫、馬方、鐵工、大工等は元氣盛りの自分に勞働を請求濫取され、一旦老衰したり窮乏のどん底に落ちると、忽ちかれらの貢献した福利と痛ましい勞働は忘れられ、悲慘なのたれ死にをとげる。之に反して遊手徒食する富裕階級は萬民を十分給養するに足る全財物を襲斷する。かゝる國家は不正不仁である。詐欺、窃盜、強奪、喧嘩、爭鬪、反抗、殺害、裏切り、毒害、これらのものは私有財産と金錢が存する限り益々増大するが、後二者の死滅と共に死滅するのだと論じてゐる。こゝには近代的な階級觀がある。 ###三、カムパネーラとF・べーコン  モーアの「ユートピヤ」が出てから共産主義的理想國を描く文學が續出した。それは單なる模倣でなく、封建制度が瓦解して、ブルジョア社會の發展するにつれて、貧富、階級的分裂等の現實的矛盾や、中世的スコラ哲學の矛盾が人々の思ににのぼつたためであり、その解決の出路がまづかやうな觀念形態にあらはれたのである。だから一つの必然をもつた文學運動であつた。有名なるもの二つを次述する。  第一にイタリーの僧侶トーマス・カムパネーラ(一五六八-一六三九)の「太陽の都」がある。かれは獨自の自然哲學に立ち、自然は生ける神の啓示であり、これを認識するのは感覺と經驗を通ずべきで、人間は大宇宙の一部たる小宇宙であると解する。これは神をもつて自然の根元なりとするスコラ哲學への叛逆であり、一の革命的思想であつた。かれはスコラ哲學の超自然的な神觀を攻撃し、後者の依據するアリストテレスの實在論を排した。一五九六年の「感覺にて論證された哲學」といふ著作が教會のアリストテレス派の反感を買ひ、ナポリ王國破壞の陰謀ありとの嫌疑のもとに捕へられ、二十七年間投獄せられてゐた。一六二六年釋放された後、フランス王家の優遇をうけ一六三九年パリで死んだ。「太陽の都」はその獄中作である。 「太陽の都」は其の國を實見したといふゼノアの船長とその滯在してゐる騎士莊苑の主人との對話より成る。「太陽の都」は哲人政治的な道徳王國で社會は共産主義的體制をとつてゐる。そこではホーといふ最上の支配者が居て地上のことも永遠の精神界のことも絶對に權威をもつ。そのもとにポン(力)、シン(智)、モル(愛)、といふ三權力があつて、軍事、學藝、民生のことを司る。市民は一切平等で財物はすべて共有であり、藝術も名譽も歡樂も共有せられる。利己といふことが絶滅している。婦人や子供も共有で、同年輩のものは皆兄弟と呼び、二十二歳以上の成人は父母、二十二歳以下の未成年者は子と呼ばれる。子供は自分の快樂のためでなく、民族保存のために育てるのだから、その教育は國家の仕事になつてをり、子供自身國家の成分である。食事は大食堂で共同にし、夜は共同の宿舍に眠る。食料その他の生活必要品は豐富に貯藏せられてをるので、各人は需要に應じてそれをうけるといふ共産主義の原則が支配する。男女兩性とも平等で、幼時から共同で技術教育をうける。自然科學は六歳以後に教へられ、さらに機械的技術にすすむ。校衞の奧を極めてこれを實地に應用することに努力している人が最も名聲をうける。奴隷や私有を許して怠惰や背徳の淵叢となるごとき國家は太陽の都の市民には最もばかげて見える。勞働は歡びをもつてなされる。各人はその能力に應じた仕事を割り當てられる。最も困難な勞働に從ふ者が最も尊敬せられる。市民は一日四時間づゝ勞働すればよい。殘餘の時間は學問、讀書、研究、討論、心力鍛錬等に費す。かれらの間には缺乏がなく又私的な奢侈などもない。かれらは境遇の奴隷でなくて境遇が却て人々に奉仕する。市民は男女とも健康でみな美しい。これは教育、訓練、社會組織の結果である。最上支配者たるホーは、血統とか優勢な政黨の代表者とかを主權者にきめる國家と違つて、三十五歳以上の年齡に達した政治上の最高の才能の所有者が選まれる。かれは最高の學者であらればならず、世界諸國民の歴史や政體に通じ、自然科學を極め、とくに形而上學及び神學に通じ、あらゆる藝術や學問の起源、基礎、展開に通じ、事物の相似と差異を辯じ、必然、運命、宇宙の調和を知り、力と智惠と、萬物及び神の愛を體し、人生の諸表象を悟り、天、陸、海の諸現象を讀み、人間の理解する極度において神の理想を知り、豫言者でもあらねばならぬとする。市民たちが謙讓で勞働を喜ぶことは、眼でものを見、舌でものを話すと同樣に自然である。傲慢が最大の惡徳として所罰せられる。商業的交換になにらの興味をもたない。しかしかれらは排外主義者でなく、外國人を歡待し、つねに世界全體のことを研究してをり、又世界がいつかは自己と同じ體制になる事を信じている。 「大陽の都」の一篇には作者の自然哲學、理性主義、道徳、政治、哲人支配、勞働への愛、共有、智的藝術的追求を至高の徳とみること等が溢れをり、文藝復興期のヒューマニズムの正しい傳統がある。科學と生産に大なる尊敬を捧げ、而も科學を藝術と離るべからざるものとするところに近代性がある。  次にべーコンの「新アトランチス」を見やう。  フランシス・ベーコン(一五六一-一六二七年)は英國の名門の政治家の子としてロンドンに生れた。ケンブリッヂ大學で學んだが學生時代から自然科學を閑却する中世スコラ哲學に反感を持ち學問の革新を考へていた。外交官をふり出しに政界に出で、檢事總長、樞密顧問官、掌璽大臣、大法官等を歴任した。かれは政治生活中に忘恩、背任、收賄、瀆職等のことが多く、その政敵はベーコンが判決の賣却其他の不正の手段で獲た金は十萬磅以上だと計算した。政敵の中傷もあり、當時の政治家の墮落した慣習にもとづいたであらうが、とにかくその政治生活に背徳のあつたのは爭はれぬらしい。政治生活中にも學問の研究を怠らず、著作を發表する毎に名聲をかち得、一六二〇年に「新オルガノン」を公にして名實ともに歐洲第一の學者となつたが、一六二一年に政治的に彈劾されて失脚した後、その死に至る六七年間は孤獨と寂寥のなかで史學、科學、文學についての幾多の著作をした。  しかし學問的にみればベーコンは近世劈頭の第一人者である。彼がアリストテレスの「オルガノン」(論理學)に對抗して述作した「新オルガノン」は、前者の三段論法にたいし、自然認識の根本方法として歸納法を創造して近代科學の基礎を据えた。彼は「知は力である」といふテーゼから出發し、「自然は服從することによつて征服される」となし、觀察、經驗、實驗による實證的研究の學風をひらいた。彼は唯物論者であるといひうるが、ホッブスのような機械的唯物論でなく、物質は活動的なもので、運動はその内的屬性であり、形相はそれと不可分のもので、事物の形相とはその法則又は本質のことであり、而も事物は特殊化、個別化、異質化の衝動をもつとなす。事物の差別と統一の原理を探求する學問は經驗を通ぜねばならないとする。しかしべーコンは單純な經驗論者とは異り、經驗は理性と競合せねばならないとする。經驗の輕率な一般化でなく、經驗の批判的分析が必要である。又學問の眞の目的は人類の幸福であり、眞理と有用とは究極において一致するとする。人類の幸福は自然に對する勝利すなはち物質的幸福が前提とならねばならぬとの思想がある。 「新アトランチス」は彼の未完の短篇で、その死後に出版された。一六一四年から一六一八年までの間に書かれたのであらうといふ。新アトランチスは當時アトランチスと呼ばれた新發見のアメリカに對置した言葉で、それは太平洋中のある島で、そこで科學の粹を極めた國家があるといふ構想であり、そこに滯在した一海員の物語といふことになつている。  今より三千年前、世界の航海術は今より遙かに進んでいて、當時のアメリカは巨船千五百艘をもつていたが、大洪水のために國土が荒廢し、そのあらゆる文化が新アトランチス島に殘つているといふ語り出しである。此國から年々世界のあらゆる國に秘密の探訪者が派遣され、世界文明のあらゆる進歩を吸收する。こゝではキリスト教が奉ぜられてをり、大家族制がおこなはれ、子女三十人に達した家族のために家族祭が催されることや、信教が自由であることや、自己自身に對する尊敬をもつて宗教に次いであらゆる惡徳を抑へる手段だとしてゐることなどを述べている。  しかし此書物の重要個所はソロモン學院と呼ばれる自然科學の殿堂の記事である。此の學院の目的は萬物の原因と秘密の運動を知り人間界の領域を擴大してあらゆる可能なことを成就するにある。そのために多くの觀察や實驗の設備があつて、鑛物の合成、新金屬の製出、氣象の觀測と豫言、鹽水から清水をとり清水を人工的に鹽水にする操作、合劑の浴湯による醫療、新種植物の製出、動物や魚類の實驗や繁殖、各方面の工業機械の發明、種々樣々の爐、顯微鏡、音響や香氣の實驗、水中でも燃える燃料、空中を飛行する機械、水中を潜行するボート等いくたの發明がある。世界中の發見者や發明者――船、大砲、火藥、音樂、文字、印刷術、天文觀測、金屬細工、硝子、蠶糸、酒、パン、砂糖等々の發明者――はみな彫像として飾られ感謝を捧げられる。有益な發明は公表される。自然的災害についての豫言やその防禦手段は逸早く國民に告げられる等々。このソロモン學院の構想は後の英國學士院制度に大に參照されたといふ。 「新アトランチス」は共産主義國家を描いたものでないが反自然科學的な教會的スコラ哲學を打破して、科學の上に築かれる合理的な人間文化、人間社會への思慕ないし豫言をしるすものである。ベーコンは財産制度の改革や社會革命よりもむしろ科學の進歩、生産技術の展開、科學的精神による生活の合理革命を欲求するのであり、「新オルガノン」の基本原理の現實化をかゝる形體に求めたのである。ソロモン學院の驚嘆すべき科學的發明、その應用による生産力のすばらしい發展、それにもとずく富饒たる富、これこそ社會的矛盾を解決するので、人間を自由ならしむるものは自然の法則の發見であり、財の共有よりも眞理の共有の上に理想社會は築かれると考へたのである。十九世紀の大工業時代に先だつ二百年にして近代科學文明を豫見したベーコンの精神は偉なりとすべきであるが、科學の進歩は必ずしも社會的矛盾を解決しないのみならず、却て人間の奴隷化を強めたり、人間が往々機械の奴隷になることは我々の目撃するが如くで、やはり社會組織の革命を伴はずして眞の人類の幸福はあり得ないのである。 [#改ページ] ##第七章 近代民主々義の泉源としての社會契約説 ###一、要旨  イタリーの文芸復興は十六世紀はじめより衰へた。これより新しいヨウロッパ精神の形成運動はイタリーの北方の國々に移つた。そのいちじるしいものはドイツのルーテルにはじまる宗教改革並に佛獨蘭英等における社會契約説の勃興である。後者は個人の自由を主張し合理づける一大思想運動で、近代民主々義の泉源となつた。それは餘りに形而上學的であつた故に、十九世紀の實證主義學風に壓倒され、今日では思想として無力化したが、その基本的主張は近代の各國憲法の中心要素として生き殘つている。ある思想が歴史的役割を果してそれ自身は亡ぶが、その積極的内容が後代の制度や觀念のなかに生き殘る好例である。  社會契約説は十六世紀から十八世紀末にわたつて思想としての發展があり且つ種々の流派があるが、根本要旨は次のことにある。  (1)人は生れながらに自由平等であること。  (2)現實の法律を超へた普遍的な理想法として自然法なるものがあること。  (3)人は國家形成以前にこの自然法の下に自由平等の生活をしていたこと。  (4)人は自然状態を脱するために相互に契約を結んで國家を形成したのであること。しかし個人の自然權や自然法は人間に固有なる動かすべからざるものであつて、國家はこれを侵害することができないこと。  (5)自然法は社會結合以前より存し、人間に本來具有する根本法であり、自然界が秩序のもとに運行しているように人間の行爲にもなにらかの秩序があるはづであり、人間の自然状態のもとではたらいた自然法は、國家成立後も依然最高の法として國家を束縛し、地上のいかなる權力によつても左右せられないこと、現實の法は自然法に背けば無效となること。  (6)自然權の内容としては財産權、婚姻權、家長權、自由契約締結權、個人的自由の權、壓制に反抗する權などが數へられた。  社會契約の思想は中世のギルドや教會團體が契約から成立した事實から類推されたといふ面もあるが、國家の成立を自由意志による合意といふことだけでは十分説明し得ないから、根本法としての自然權、自然法、社會契約の思想に到達したのである。 ###二、社會契約説の思想的源流及び社會的條件  社會契約説は突然新しく生じたのでなく、ヨオロッパ固有の次の思想的源流がある。  (1)ストア哲學における個人の自由平等の思想。ストア哲學の世界市民主義は、國家を飛びこえて世界と個人とがたゞちに結びつく思想であつたが、けつきよく個人の自律性を中心觀念とするものであつた。個人の自由平等の觀念はかれらによつて創設されたもので、後代のヨウロッパに傳へる貴重な精神的遺産となつた。  (2)キリスト教における地上の法律を超越する神法の思想。それは中世のキリスト教を代表する二大思想家アウグスチヌス及びトマス・フオン・アキノによつて神法的な自然法の觀念に作りあげられた。社會契約論者のなかには自然法を神法なりとする觀念を把持する者が特に初期に相當多い。  (3)プラトンやシセロの國家論における契約思想。國家が契約によつて成立したといふ思想が素朴な形でプラトンやシセロのなかに現れてゐる。  (4)文藝復興における個人の自覺、個性の尊重の思想。イタリーにはじまつたこの思想は近代ヨウロッパ人を最も強く動かす現實的要求となつた。  社會契約説は書齋の學者によつて考へだされたものでなく、十六世紀以來のヨウロッパの旺盛な社會的政治的發展を背景として成立したものである。十六・七世紀の英佛には封建貴族對新興ブルジョアとの鬪爭が次第に激化した。後者はブルジョア的自由を欲求した。絶對主義王權政治はブルジョアと共同戰線を張つて封建賞族に對抗したが、ブルジョアは絶對王政をそのまゝ容認するものでなく、その權力の制限を欲した。そこで權力はいかにして成立したか、人民の固有の權利は何か、何人か君主に權力を委託したか、權力は制限せられ得るか等が切實な、そして一般的な問題として生じたのである。自然法の思想も社會契約の思想もその答へとして生れた。  文藝復興以後のヨウロッパ人にとつて自由の意識は拔きがたい現實的要求となつたが、國家もまた封建的制限を脱して近代的大國家として成長しつつあつて、權力が個人の上にのしかゝつてくる。近代ヨウロッパ人はこの個人の自由と國家權力との矛盾衝突に面して思想的に苦悶し、最良の頭腦がその智的能力をしぼつて社會契約説を作りあげた。現實と結びあつた血みどろの思想的鬪爭であつた。そしてフランス革命においてその實を結んだ。 ###三、社會契約説の人々  十六世紀より十八世紀末まで、社會契約説の發展は大體三期に分ちうる。 ####第一期 #####モナルコ・マツへンの人々  モナルコ・マツへンとは「王を作る」といふ意味の言葉である。この派の人々は暴君放伐を是認するところに特色がある。かれらは、自然法は神法であるといふ見解に立つ。カトリツク派のみならず、ユグノー派(フランスのプロテスタント)、カルヴィン派いづれもこれを主張する。國家は契約によつて成立したのであつて、人民は神の民たらんがために國家を作り、支配服從契約をしたので、つまり人民が君主を作つたのである。人民は神の法に反く君主に對して服從を拒否するのみならず之を放伐する權利がある。君主は人民の被委任者にすぎぬ。君主が人民の利益を無視するとき、人民は君主を裁判し死刑に處しうるといふのである。この思想はキリスト教的性格が強いから必ずしも一般化されなかつたが、清教徒のクロムウエルが一六四九年にチャールス一世を死刑に處し、イギリスに共和制を宣言した如きはモナルコ・マツヘンの一つの實踐であつた。しかしモナルコ・マツヘンも徹底的な人民主義でない。大衆は無智で混迷してをり、神が監督者として選んだ君主、貴族、富者がそれを指導すべきだといふ思想をもつていた。 #####ジャン・ボーダン(一五三〇-一五九六)  十六世紀のフランス人ジャン・ボーダンは創意的な天才だつた。かれが一五七七年にパリで出版した「共和國」は次の點で劃期的貢献をしてゐる。第一にかれは人類地理學的歴史觀の創説者である。個人や民族の氣質の相違を氣候、土地、風土等に求めた。これは後のモンテスキュー、へルデル、ラッツエルなどの先驅をなす。第二に彼は國家學上の主權論の創説者である。主權は國家の本質であつて、その屬性は單一、不可分、永續、最高絶對なることであり、主權は法律によつて左右されない。ちようど蛇手が船の蛇を左右するやうに、主權者が法律を左右する、これは國家の幸福にとつて必要事だ。國王が法律によつて拘束されないことはかれの主權の根本前提である。國王は自己の與へた法律を無視しても責任を問はれない。ローマ法王が地上の最高の審判者だといふのは謬りで、國王は法王の法律によつて拘束されるものでないとする。  しかし國王は神及び自然の法からその意志及び行爲を制限せられるとなす。國家は自然法にもとづいて人民が契約を以て作りあげたのであり、國王は自然法に服從しなければならない。彼は契約や個人的自由を尊重し、私自財産の不可侵性も自然法に根ざすのだとする。  彼は專制君主を擁護する理論を立てた反動的人間でなく、新興ブルジョアジーの代辯者として、封建貴族に對抗してプルジョアの味方としてはたらく開明的專制君主や能率的な統一國家を要求したのであつた。 #####ヨハネス・アルトシウス  十六、七世紀のドイツ人は、國家學説については、英佛思想に追隨してをり、特にドイツ的な新味はない。ドイツにおける社會契約説の代表者ヨハネス・アルトシウスもまたそうである。彼は國家權力の眞所有者、眞の主權者は人民であると考へる。主權は賣却、貸與、分割できない。たゞ主權は委任されうるものである。君主の主權は主人から委託されたもので、君主は眞の主權者ではない。權威はつねに人民の側にありとする。しかし彼はモナルコ・マツへンの人々と同じやうに徹底した人民主義者でなかつた。人民は主權はもつていても全面的に自分で支配することはできぬから、君主、貴族、市役所などがそれを代行する。君主がもし代行權を誤明するときは、これらの他のものがそれを退位せしめる。人民は受動的な權利を有するのみとせられる。  彼の社會契約説における一つの特徴は、國家契約のまへに種々の社會契約があつたといふこと、つまり國家成立以前に種々の社會團體が先行しているといふことを述べている點である。これは新世界(アメリカ)發見以後に人類の國家以前的な種々の生活形態が知られた結果である。 ####第二期  十七世紀を中心とするこの時期には神法即自然法の思想が止揚され、自然法とは人間の理性法だとといふ思想が確立され、社會契約説が思想體系として深められた。 #####フーゴー・グロチウス(一五八三-一六四五)  オランダ人フーゴー・グロチウスは二十四歳で檢事總長になつたほどの秀才で、宗教上の進歩的意見のために投獄せられたこともあり、スウェーデン王室の寵をうけて波亂のある政治生活をした。彼には二つの偉大な學問的貢献がある。第一は近世國際法の鼻祖となつたことである。一六二五年にかれの「戰爭法と國家法」が出版された。かれは自然法の概念に照らして平時戰時ともに國家の守るべき法のあることを説いた。第二にかれは自然法を神法から人間の理性法へと理論的轉開をした。神がなくとも人性にもとづいて普遍的に存在する法がある。これ自然法にほかならぬとする。これによつて社會契約説に中世的神學主義を脱して近世的理性主義に立脚するに至つた。國家は契約にもとづく自由人の團結であり、最高の法として自然法が支配するとなす。しかし彼は國家の主體性、獨立性をも認める。人民主權説であると共に國家の主體性をみとめるところに次にのべるホッブスとのつながりがある。 #####トーマス・ホッブス(一五八八-一六七九年)  ホッブスは英國の偉大な哲學者、政治學者で、かれの國家論の主著は一六五一年出版のレヴィアタンである。彼は一五八八年から一六七九年まで、つまり九十一歳の長壽を保ち、失意と得意の相繼ぐ波亂ある生涯を送つた。その國家至上主義から王室を支持していた彼は、クロムウエルの共和革命に逢ふと困難な地位に落されたがクロムウエルとその政府はホッブスに對して寛大で、むしろ尊敬をもつて待遇した。(革命政府は誰を尊敬すべきかについて正しい本能をもつものである。クロムウエルの死後共和制が廢され王制が回復された後にホッブスは却て意地惡い冷遇をうけ、貴族や僧侶から攻撃されて、「レヴイアタン」は禁止となり、一六六八年に書いた「ベヘモート」(別名「長期議會」)は出版を許されず、死後三年には著書「市民について」「レヴイアタン」が廣場で公衆のまへで燒かれるなどのことがあつた。  十七世紀は偉大な力學者や數學者の輩出した自然科學の世紀だつたといへるが、ベーコン、ガリレオ、ケプレルのやうな自然科學者や、ガッセンデイのやうな唯物論者やデカルトのやうな哲學者はホッブスの思想上の同志であり友人であつた。彼は本國よりもむしろ國外で名聲が高かつた。  ホッブスは哲學上の立場は唯物論で、唯名論《ノミアリズム》の傳統と數學的機械論に立つて、中世の實念論《レアリズム》やカトリック神學を反駁した。その認識論は感覺論に立つ。しかし認識は感性的知覺や記憶によつて供給される直接的知識以上に、分析と綜合を通じて合理的に事物を創造し又は構成することであるとする。彼は自然主義的な人性論――むしろ性惡説に立つて功利主義倫理を説いた。(英國の功利主義哲學の鼻祖はかれである。)彼は國家の本質を權力において見出す。各個の國家はそれ自體的存在で、ローマ法王が全世界の統一者だといふ思想に反對する。英國はそれ自身一の獨自な全體であるとなす。かれは法律の本質を命令と強制において把握し、それから道徳的粉飾をとり去つた。かれは社會構造に分子論的考察を試みた。かれは、あらゆる思辯は自然の征服や人間社會の生活向上のための何らかの結果や實踐的成功を求めるためのもので、有用なる知識のみが眞の知識であり、かゝる知識の發見は哲學の發達なくしては不可能だとする。論理學、數學、認識論、人性論、功利倫理學より成る彼の哲學體系はけつきよく國家や民族や社會の現實條件の下でいかにして人間が自然的存在から自覺的存在に高まるかといふ基本目的のためのものであつた。  さてかれの社會契約説であるが、かれは他の論者のやうに人間の自然状態なるものを美しく描き出さない。むしろ自然状態のもとでは萬人對萬人の鬪爭がおこなはれ、恐怖、殘忍、無知、孤獨、疾病、短命等の恐しいことが支配的である。自然權とはむしろ各人が生命保持のために力を用ふる自由である。(在來の自然權の概念とは正反對である。)人は自己愛によりてのみ動く。力の欲望が人間の根本衝動である。理性はこの無秩序で不斷の混亂たる自然状態を脱するための一般法則として、戰を單に防禦にとゞめ、平和の中に住み、復讐を忘れ、感謝し合ひ、平等公平に暮らすことを教へる。それは結局よりよく生きるためである。この一般法則が自然法だとホツブスはいふのである。だから自然法とは單に道徳の義務や良心の義務にすぎない。かやうな自然法は自然状態の下で行はれるものでない。萬人對萬人の鬪爭のなかでは自然法は沈默する。  人々はこの自然法を實定法《ポジチヴロウ》として實現するために社會契約を結び國家を作るのである。人々は個別意志を捨てて一個の意志に統一せられる。この統一がなければ鬪爭はやまない。だから自然法を行ふ前提は人々が自然權――力を以てする露骨な戰ひの權利――を放棄するにあるとホッブスは言ふ。  ホッブスは國家を力の組織として理解する。主權は絶對的で最高である。法律の本質は他人に或事を命じ又は禁止する權力作用である。眞の法律は國家と共にできる。法律的意味における正不正とは國家が許すか否かに外ならない。從つて單純な理性の命令たるにすぎない自然法は國家の成立と共に消滅するのであり、國家の法のみが實は宗教や道徳や社會生活の規範となりうる。しかし國家の法はできるだけ完全に自然法と一致せねばならぬといふことをホッブスは承認する。同時に國家の法と一致せざる自然法はなにらの力となるものでない。國家こそ萬能者なのだと彼は考へる。ホッブスは人間の意志的活動とその創作を熱情を以て讃美するのである。人爲によりて人間は自然を脱し眞の人間的存在となる。かれのいふ契約とは人間の意志的創作といふことの代名詞だと解しうる。かゝる意味の契約の所産たる國家は人間の最大の意志的創作物であり且つ他の一切の意志的創作を可能ならしめるといふのが彼の眞の主張だと解しうる。  ホッブスは他の社會契約論者を斷然拔いている。彼は他の如く形而上學的假定から出發したり、その觀念に捕はれたりしていない。彼の唯物論哲學や倫理學説や國家論は十分近代的である。近代における國家の發達、その權力の意義や作用を理解し、人間向上の鍵をそこに發見し、且つ實證的研究の態度をとつている。かれは十分近代人であり近代的思想家であつた。 #####ジョン・ロック(一六三二-一七〇四)  ホッブスに次いで現れた英國の大思想家ロックは、經驗論哲學の近代的建設者、經濟學では勞働價値説の祖、政治學では三權分立論の創唱者であり、その影響が自國のみならず、大陸にも及んだ當時勃興したプルジョアジーの最良の思想的代辯者であつた。  彼は、ホッブスと異り、人間は自然状態のもとでは平和に生活したといふ假定から出發する。そこでは自然法が支配する。自然法は理性の法である。その基本内容は、あらゆる人間は平等且つ獨立であつて、何人も他人の生命、財産、健康、自由を侵害してならないといふことにある。  しかし自然状態の下では自然法を侵した人間を罰するだけの統一的な力がまだない。そこでは自然法の遂行は各人の手に委ねられる。各人は自然法の侵害者を自ら虜罰する權利を有する。奴隷や隷屬はそこから生じたのだとかれはいふ。(これまさしくブルジョア的思考である。)ともかくかようにして自然状態の下では一の法的状態がある。  しかしそこでは各人の知識や利害が異るため自然法の解釋に相違が生じてくる。時と共に人は暴力に訴へて自然法を守らず戰爭状態に入るようになる。そこでこの混亂を避けるため自然法にもとづき契約を結んで國家を作るに至るのだとかれは説明する。だから國家は力の産物でなく、法――理性の法――の産物だといふことになる。自然法は國家に先立つて存在し、國家に内在する永久不變のものである。法から不法が生ぜず、不法から法が生じない。人間は自由な決意によつてのみ自然權を放棄するのであるが、各人は契約によつて自然權の全部を放棄するのでなく、立法や司法の權のみを國家にゆだねる。殘餘の自然權は依然各人に殘る。國家がそれを侵すとき人はそれに反抗する權利を有する。立法者が當然人民に屬するものを奪取し破壞する場合、又はそれを專制的權力のもとに隷屬せしめる場合には、その立法者は自己を人民との戰爭状態に置くものにほかならないから、人民は本來の自由を奪還する權利を有すると彼は書いている。財産や自由についてのロツクの思想は全くブルジョア的のもので社會學的な實證的説明を無視してをるが、當時のブルジョアが進歩的であつたかぎりにおいて、ロツクの説も進歩的なものであつた。彼の説はフランス人に歡迎せられてフランス革命をよびおこす思想的源泉ともなつた。 #####スピノーザ(一六三二-七七年)  スピノーザは社會契約説においてホッブスと共に他の社會契約論者(その多くは形而上學的假定から出發している)を遙かに凌駕する、特異な正しい思想を展開している哲學者である。かれは十七世紀に最も自由な國だつたオランダの繁榮した都市アムステルダムのユダヤ商人の子に生れた。かれは、自然即神といふ基本テーゼのもとに汎神論的で無神論的唯物論的な偉大な世界觀を發展させた。主著|倫理學《エチカ》や神學的政治論のなかにその特異な人間觀よりする社會契約思想がある。二十三歳のときユダヤ教會から破門され、後にはその自由思想の故にキリスト教僧侶や學者や文人から瀆神者として攻撃され、迫害と病苦のなかに孤高の生涯を送つた。四十四歳の短命で死んだのは惜しむべきことであつた。しかし彼は自分でも神學政治論のなかで書いている通り、自己の意見を僞り得ない人間を放逐することは國家にとつて非常に不幸であり、自由な精神の持主を犯罪人と宣告するほど有害なことはなく、自分の正しさを意識している人間は犯罪人のように死や刑罰を恐れていない、自由のために死ぬるのはむしろ賞むべきである、といふ信念に立つていた。スピノーザの思想は後世に廣汎な影響をおよぼした。ゲーテにもヘーゲルにもその顯著な影響がある。  スピノーザは客觀世界の存在を承認し、合目的性の觀念を否定し、因果の範疇による嚴密な決定論を肯定する。かれは、あらゆる存在と認識の基礎をなすものとして、唯一無限で自己で自己の存在を決定する自因として神を想定するが、この神はすべてのものを包擁し且つ充たしてゐる實體で、自然そのものに外ならず、その屬性は無限であるが、人間に判つているその屬性は思惟と延長の二つだけだとする。かように自然を神と呼んだスピノーザは傳來の神なるものは無いと言ふたと同じである。唯物論と無神論の特徴が以上のようにはつきりしている。  この世界觀からかれの特色ある人間觀が生れる。人間も自然の一部にほかならぬ。國家も一の自然物である。あらゆる物は自己の有に固執し、自己を發展すべく努力する。自己保存の努力は物の本質自身に外ならぬ。この法則は人間をも支配する。人間の力はそれが彼の現實的本質によつて表示される限り、神或は自然の無限なる力、即ち神或は自然の無限なる本質の一部である、とかれは言ふ。生存し行爲し生活する欲望は人間の本質であり、いかなる徳も自己保存の努力より先に考へられない。自己保存の努力は徳の第一の且つ唯一の基礎であり、この原理なくしていかなる徳も考へられない。本質と力とは同一であり、人間にとつて徳と力とは同一である。善とは我々にとつて有用なるものである。各人が彼に有用なるものを求めること、即ち彼の生存をよりよく維持し發展せんと努力することによつて、彼は益々有徳となる。人間が有徳に生活するとは人間自身の性質の法則に從つて生活することである。魚が生來泳ぐように定められ、大魚が小魚を食ふように定められているように、人間が自己保存の努力をすることは自然の約束である。しかし人間は理性の指導に從つて行爲し生活し生存を維持するとき最も有徳である。徳に從ふとは理性に從ふことである。我々は認識する限りにおいてのみよく活動することができる。理性のもたらす認識の最高なるものは神の認識である。精神にとつて最高の善たるもの、或は最も有用なるものは神の認識、即ちそれなくして何物も考へられないところの絶對無限の實在である、とスピノーザは言ふ。この神の認識とは、客觀的法則の科學的把握といふ意味に解すべきである。  人間が理性に從つて生活するのは稀れであつて、多くは嫉妬を抱いて互に不快である。それにも拘らず人間は孤獨の生活に堪へられない社會的動物である。人間にとつて理性に從つて生活する人間ほど有用なる個物は自然のどこにもない。人間にとつて彼自身の性質と最も一致するもの即ち人間が最も有用である。人間は理性の指導によつて生活する限り絶對に自己の法則によつて生活するのであり、その限りにおいて他の人間の性質と必然に一致する。こゝに人間の共同社會の基礎がある。  以上のような人間觀から、スピノーザ特有の社會契約論(むしろ國家論)が展開する。  スピノーザも自然状態なるものを假定する。しかし他の契約論者の如く、人間は自然状態のもとで自由平等に活動していたとか、自然法は理性の法だとかいふような形而上學的假定をしていない。彼はホッブスと同じく自然的人間を衝動的な存在として理解する。自然状態の下で人は理性でなく衝動によつて動く。そこには自然の理性法などはない。自然は理性のもとに立たぬ。自然は何人も欲せず且つ爲し得ないことのほかは禁じない。自然状態の下では人は自己の必要のみを顧慮し、その限りにおいて善惡を決定する。各人はその欲望を刺激するあらゆる物に權利を有している。萬物は萬人に屬するから私有と稱せられるものはない。人間は完全に自己の權利のもとにある。しかしかような自然權は絶對的であつても抽象的なものにすぎない。人間は絶えず他の人間から脅かされている。各人は各人に對して敵對する。だから自己が自己の權利の下にあるとは同時に他人の權利の下に在るといふのと同じである。  人間は社會的動物であるから孤立して生存することはできない。さきにのべたように、人間にとつて彼自身と最も性質の一致するもの即ち人間ほど有用なものはない。人間にとつて人間は最大の敵であると同時に又最大の有用物である。人間は安全且つ恐怖なしに生活するといふ必要から國家(社會といふと同じ)を結成する。その瞬間から各人は欲望のまゝに恣意的行爲をなし得なくなる。あらゆる人間が自己の力を國家に委任し、それによつて國家はすべての人間に對する最高の力の所有者となり、各人は自由の發意から、もしくは刑罰への恐怖から之に服從せざるを得なくなる。しかし各人の自然權が機械的に國家に讓渡されるといふ在來の説明は不可であつて、それは辯證法的に國家に移行するものにほかならない。在來の自然的必要が、國家の必要によつて取つて代られる。法又は法律とは國家の形成と共にはじめて社會人の共同生活規律として成立するのである。人間の力は國家又は社會の力としてのみ現實の力である。個人の自然權は共同の權利として總合される場合にのみ現實的である。人間は法的共同體の外に生活し得ないのであつて、國家は自然的なものとして成立する。  スピノーザはかくて國家において各人が他の權利の下にあるのは結局自己の權利の下にあることを意味するといふ思想を展開している。これは後にルッソーが共同意志に服するには自己に服すると同じとなした思想の先驅をなすと言つてよい。人は理性に從ひ彼自身の權利と共同の權利を一致せしめるときにのみ國家において自由である。國家の本質は自由にほかならない。理性即ち自由な判斷が支配する國家が最も人間に有用な存在である。迷信、偏見、恐怖を生み出すものとして宗教や君主政治の害をスピノーザは數へている。 ####第三期 #####啓蒙主義の世紀  十八世紀はいはゆる啓蒙主義の世紀である。その最大の旗印は理性である。この思潮の重要な代表者ヴォルテールは「怪物に對する唯一の武器、それは理性である。人々を不法と邪惡から護る唯一の方法、それは啓蒙である」と言つた。合理主義、主知主義、經驗論的認識論、個體主義的人性觀、歴史と傳統との蔑視、宗教否定などを特色とする。ベーコン・ロツク・スピノーザなどはこの思想の先驅者だ。イギリス理神論者トーランドやテインダル等も特種な代表者だ。クローチェが、文藝復興はイタリー精神の所業であつたが、啓蒙主義は急進的な、徹底的な、好んで極端に走る、また論理主義的なフランス精神の所業であると論じているように、啓蒙思潮の主要の代表者たるヴォルテールやモンテスキューや百科全書派唯物論者たちはすべてフランス人である。啓蒙主義時代は非歴史的時期といはれたほどに歴史と傳統の拘束から脱して自由を欲求することが主題となつた。ルッソオは主情意的立場から主知的理性主義に反對してロマンチシズムの先驅となつたが、なほ歴史の價値を否定しているところからみてなほ啓蒙思潮を説していない。啓蒙主義一般の缺陷は事物の機械的合理化、情意の輕視、主知主義、技巧的知識等であり、時として詭辯論がある。かれらが事物の尺度とした理性は神聖な一般的概念としてあらゆる場合にふりまはされているが、その理性とはけつきょくブルジョア的理性であつて、進歩的ブルジョアの利害と一致しないものはすべて理性に合しないものだと宣言せられた。  自然法や社會契約の思想はこの啓蒙主義思潮の政治學的法律學的方面を代表するものであつた。すでに英國ではファーグソン、アダム・スミス、ヒューム等によつて政治や經濟についての近代的な實證主義的學風が作られ、社會契約説は空想であると宣言され出していたのだが、フランスでは大革命を用意する思想的條件として社會契約説は大きな現實的役割を演じた。 #####ジヤン・ジヤック・ルッソー(一七一二-一七七八)  ルッソオは瑞西のジュネーヴの時計師の子に生れた。かれの自叙傳「懺悔録」は岩波文庫本によい邦譯があつてひろく讀まれたが、それに出ている通り、十三歳のときに彫刻師の弟子になるやら、間もなく出奔して放浪生活をしたり、自分を救ふてくれた未亡人と關係したりして、多感的で放縱な生活を送つた。一時ヴェニス駐在フランス公使の秘書をしたりしたが長く勤まらず、一七五〇年、學士院の懸賞論文に「學問及び藝術の進歩は道徳の淨化を寄與したりや否や」次いで「人類の不平等の起源及び根據」が當選し、一七六二年には「社會契約論」(明治の自由民權論者の間では「民約論」の名で知られ愛讀された)や、兒童の自然的個性的發展を主張する教育論「エミール」が出て思想家としての名聲が一世を風靡した。革命直前のフランスの反動的王朝政府は彼の急進思想を迫害したので、瑞西や英國に亡命し、パリに歸つた後に急死した。かれはサロン哲學者たちから嫉妬されていぢめつけられたことが少くない。  ルッソオは「社會契約論」の冒頭に「人は生れながらにして自由である、しかも至るところで鐵鎖につながれている」と叫んでいる。彼は自然状態の人間を假定する。自由と平等は人間の天賦である。ルッソオは純粹の個人主義者で、個人がすべて社會生活の基礎であり、個人の法が社會の法を規定するとなす。モンテスキューは人は常に社會の中で生活してきたといふ正しい命題を立てたが、ルッソオはそんなことをとりあげない。かれは人間が社會契約を結んで國家を作り、自分の自由をそれに讓渡するのは、自分自身の利益のためであり、各人は全體と結合しながら而も彼自らにのみ服從し、以前と同じやうに自由でありうるのでなければならぬとする。自然状態から社會状態への轉移は本能の代りに正義を、肉體的衝動の代りに義務の聲を以てするに至る。人間はこの状態のもとで自然から得ていた多くの便宜を失ふけれども、總體的な共同意志の成立によつて自由は一層確實に保障せられるやうになる。ルッソオの共同意志とは個々人の意志の集合をいふのであつて、それが有力なればそれだけ個人も有力となるのであり、それに服することは彼自身に服從することに外ならぬ。各人は全體に服從しながら而もそれは自己に服從することなのだから以前のやうに自由である。主權の眞の所有者は人民だから、契約によつて生じた社會にこそ完全な自由と平等がある。個々人は自己に優越せる意志に服從するのでなく、彼等が自己の意志によつて構成した共同意志に服從するのだから、彼等は完全に自由である。共同意志たる國家の主權が無制限であれは、それに正比例して個人の自主權も無制限となるといふのである。(自ら自己の上に設定した法律に從ふところに眞の自由があるとするルッソオの思想はカントの道徳自律説に影響したといはれる。)  ルッソオは主權の作用は強者と弱者との約束から生じたのでなく、團體とその成員との約束から生ずるのだと言ふ。しかしこれは假定にすぎぬ。人間の自由もむしろ歴史の成果であり、自由の量は歴史と共に増してきたものである。又ルッソオの共同意志の説は容易に國家萬能の思想とつながりジャコバン黨的獨裁主義をすら導きうるのである。然し彼の學説は、當年のヨウロッパの國家生活における封建的なものとの戰ひに人民に強い武器を供給したものであり、近代國家に主權在民の民主々義原則を据へつけた貢献は大きい。 #####フランス革命・人權宣言  人は生れながらにして自由平等であるといふ社會契約説の基本思想は、一七七六年のアメリカ獨立宣言に、次いで一七八九年のフランス國民議會の人權宣言に明記せられ、十六世紀以來の長い思想鬪爭が大きな政治的事實のなかに實を結んだ。  一七八九年七月十日のフランス國民議會におけるラファイエットの演説に「人間の生得の賣却する能はず、又時效にもかゝらざる、自然によつて人間の心の中に刻まれた權利」といふ言葉がある。この原始的永久的な生得の權利として、ラファイエット自身の口から數へられたものは、意見の自由、各人がその名譽を個人的に保護する權利、生存權、公民的所有權、自己の一身及び能力の自由な處分、言論出版の自由、自己の幸福のための妨げられざる經濟的活動の自由、壓迫に對する反抗の權利などであつた。けつきよくブルジョア的自由にすぎないが、ブルジョアが當時の社會の進歩的動向を代表していたかぎりにおいて、それらには一般的意義がある。  この國民議會の發した人權宣言第二條は「すべての政治團體の目的は人間の自然的且つ不可侵な權利の保持にあり」と記す。つまり國家は個人の權利の保持を目的とするにすぎない。人は獨立の意志を有する自主的人格で、知的道徳的に差異があつても、人間としての權利は生れながら平等だとする、徹底的な個性の尊重である。人權宣言が神聖にして讓渡不可能なりとした自然權十七ヶ條は各國憲法の規定する自由權ないし基本權のほとんど全部を網羅している。又一七九一年の憲法には、立法權は憲法の現條項に規定されそれによつて保障せられた自然權及び市民權の行使を侵害干渉するごとき法を制定するを得ず、と規定された。  一七九三年の宣言では壓迫に對する反抗の構利を明記する。この權利は他の諸權利より生ずる當然の結果だとせられる。政府が人民の構利を侵害するとき、これに反抗することは人民の最も神聖な權利であり最も緊切な義務である、又主權を奪取せんとする個人は速かに自由人によつて殺さるべきであると書かれてある。  一七九一年の憲法は戰爭反対を明記する。フランス國民はいかなる征服戰爭にも反對し、又いかなる人の自由の制限のためにもその兵力を用ひないと規定し、一七九三年の宣言には、フランス國民は自由人の同志であり自然的同盟者である、フランス國民は他の國民の政府に干渉せず、又他の國民によつて千渉せられることをも默認しないと規定してゐる。  徹底的な個人主義理論にたつフランス人權宣言には、當然、社會人の觀念がない。これを模型とした十九世紀の各國憲法にも當然それがない。個人の國家に對する義務とか、國家の社會的義務といふ思想は二十世紀の憲法においてはじめて現れるところである。しかし一七九〇年のフランスの一法律には、社會はすべての成員に生計と仕事を與ふる義務があり、且つ働きうる者にして勞働を拒む者は反社會的な行爲を犯した罪を負ふと規定され、その結果、勞働紹介所が創設され、男子には土地を、女子には物の製造を、といふ規定が作られた。但し大なる成果はなかつた。一七九一年の憲法及び一七九三年の宣言には、公共の補助や公共教育が規定された。 ###四、社會契約説總評  文藝復興以後のヨウロッパ人にとつて個人の自由と國家權力との矛盾衝突をいかに解決するかゞ基本問題であつた。かれらは思想的にも現實的にもこの問題に煩悶し苦鬪し最深の知的究明がなされ、自然法、社會契約の思想となり、フランス革命において實を結んだのである。かゝる血みどろの思想的政治的鬪爭の訓練のなかつた我々東洋人は、たゞ漫然民主々義の果實を公式的に享受すべきでない。  社會契約説の前提とする、自然状態における人間といふ假定は空想的であつて實際の事實ではない。人間の自由は人間が歴史のなかに漸次積み重ねてきた貴重な收穫物だ。しかし歴史の内在目的が自由であるといふ觀念を鮮明に示した社會契約説の功績は大きい。一時代に眞理であつたものが次の時代に不眞理となることは往々見られるが、それが永久眞理にふれているかぎり、學説としての功績は亡びない。社會契約説は實證主義的見地よりすれば既に亡びてしまつたが、その根本觀念たる天賦人權といふ言葉には全人類的なひゞきがあり、近代民主々義のなかに結實して今も大きな力を殘している。それは實際において封建制度を打ち破る新興ブルジョアの思想的武器であつたのだが、歴史を前進せしめる進歩的役割を果し得たものである。  社會契約説は個人主義的學説であつて社會人の觀念をもたない。個人の權利を力説することが主であつてその義務づけは少ない。國家、社會、個人の新しい融合が今後の基本問題である。それは新しい社會主義のなかに解決されることで、我々の努力の對象がそこにある。しかしそれが十九世紀の偉大な獲得物たる個人の自由を基礎に含まねばならぬのはいふまでもない。個人の自由の基盤を缺いた社會主義は獨裁に陷るのである。  啓蒙主義思潮は理性の萬能を信ずるものであつた。社會思想の方面では社會契約説は無力化し、社會主義がその主流となるに至つた。サシ・シモン、フーリエ、オーエン等のユートピヤ社會主義に次いで十九世紀半ばよりマルクス主義が登場するに至る。これらの事情については本書の續篇で明かにしよう。 [#改ページ] ##餘論 フランス革命以後の人々  フランス革命以後今日に至るまでの主要な社會思想家のうち二三の有力人物を粗描して本書の補論にしておきたい。 ###ヘーゲル(一七七〇-一八二〇)  獨乙古典哲學は觀念論哲學に外ならなかつたが、その最も重要な思想的寄與は發展の思想であらう。發展は人類の本質に外ならないから、それについての認識は直觀の形で古代から東洋、西洋の文献にあらはれてゐるのであるが、十九世紀前半のヨーロッパのロマンチシズムの時代に一般的原理となつた。彼等の考へによると發展とはある一なる物が低い段階より高い段階へ轉化すること、換言すれば、低い段階の内面に蓄積された可能性が現實化してゆくことで、つまり發展とは内的な自己發展であり、且つ必然的なものであつて個人の主觀の偶然と關係がないとされた。彼等は發展の目的論的構成を好んだ。これは彼等が觀念論者であつたからである。彼等は發展とは自由の發現の漸次的純化であると考へた。自由、個性、美、道徳、理想等が尊重せられた。  獨乙古典哲學の最高峰はヘーゲルである。彼は單なる思辯論者でなく、現實そのものに對する鋭い分析力や綜合力をもつてをる。ロマンチシズムの政治哲學はヘーゲルにおいて結晶したと云つていゝ。  ヘーゲルは歴史は發展の過程であり、如何なる時期も固定したものとして觀察されてはならず、前段階の所産は止揚されて後段階の中に保存されるのであるから、眞に歴史的なものは不死であり常に現在であると言ふミゴトな觀察をした。彼は又歴史は矛盾を通じて發展するもので矛盾は一切の事物の自己運動の原理であり、歴史は矛盾の生成と分解の中に發展するのであり、否定の否定、これがあらゆる前進の原理であるとなした。  ヘーゲルは歴史を政治史として理解する。世界史の中に論ぜられるものは國家を形成した民族のみで、國家においてのみ自由が實現する、國家は倫理的全體であり、自由の現實性であり、理性と情熱との客觀的統一であると考へる。ヘーゲルは精神の本性は自由であり、それが人間の本質であるとなしてをり、歴史の究極目的は自由を實現することにあるとなした。世界歴史とは精神がその本來の姿の自由に關する意識を獲得する過程だとされた。かやうなヘーゲルの歴史哲學の中からその觀念論的荒唐さを取除けば貴重な思想がたくさんある。  ヘーゲルは民族の役割を高調する。歴史は國家より始まるのであるが、國家とは民族の作り出すものに外ならぬ。民族は自己固有のものを政治形態において表現する。政治形態の相違は諸民族に固有なる原理の相違に外ならない。國家の歴史、國民の行動、祖先の作りのこした一切の物が國民の内的財産であり、國民の實質的存在はそれによつて形作られる。一つの國民精神が世界史的なものたり得るのはその根本要素、究極目的の中に普遍原理を含んでゐるかぎりにおいてである。國民を行動させる原動力が單に慾望にすぎないならば、そんな行動は何らの足跡をのこさずに過ぎ去るのであり、むしろそれは民族を墮落に導くであらう。  以上のやうなヘーゲルの國家や國民についての考へ方は多分に論理主義的な思辯論である。しかし卓越した現實の理解者であつたヘーゲルは他方において市民社會といふ概念を提出してゐる。彼の市民社會の概念の中では自己の利益のみを追及する私的個人なるものが登場する。近代に作り出されたこの市民社會では個人は他の個人と關係なしに存在し得ないけれども、しかも他人は自己の目的を達するための手段にすぎない。人は市民社會において家族の紐帶からたち切られた獨立人となる。この社會形態の下で萬人は萬人と鬪爭する。一方に富の莫大な蓄積があらはれると共に、他方に勞苦者の隸屬が増大し、後者は富や社會や政府に對する憤激をもつに到る。しかし市民社會は過剩の富を有しながらも貧困を除く力がない。市民社會の辨證法は海を越えての植民を刺戟するに到る。ヘーゲルはかやうにブルジョア社會の經濟鬪爭、階級對立、過剩生産、貧困の増大、生存權と勞働權、植民などの近代的概念を把握してゐたのである。この市民社會の概念はマルクスに大きな影響を與へたし、テンニースのいはゆる利益社會の概念の基礎となつた。  ヘーゲルは實際においてプロシヤの軍國的君主政への代辯をしたのであるが、しかしこのプロシヤ主義とその觀念論的思辯を除けば、彼の政治哲學における自由の思想、國家や國民の思想、市民社會の思想など多くの天才的ひらめきがある。 ###社會學的國家觀の人々  十九世紀の後半期に入るとヨーロッパの政治哲學は實證主義や自然科學の勃興とともなつて大いに變貌する。ヨーロッパの一八四〇年代は一般的に言つて分裂對立、精神的不安、政治的危機の時代であり、一八四八年頃には全ヨーロッパに革命的機運がみなぎつたが、その直後の状勢は大工業や鐵道工事の勃興、世界市場の發達、勞働者階級の勃興、自由主義と反動主義との鬪爭、社會主義運動の發展等によつて特長づけられてゐる。十九世紀の七〇年末以後には獨乙や伊太利の統一、イギリスの世界帝國化、ロシアの近代化の開始等と共に資本主義の平和的發展の眞盛りとなつた。十九世紀前半の形而上學的體系は全て衰退し、哲學では認識論が主題となり、ダーウィンの進化論が現れ、フランスではコムトを中心とする社會學が成立し、イギリスではスペンサーやミルの實證主義的思想が勃興した。實證主義では形而上學を徹底的に否定し、經驗的現實のみを問題とし、知識の對象を時間及び空間の内部で見ることの出來る經驗的所與のみに限り、ただ現象間の關係を實際觀察によつて歸納的に討究する。現象背後の實在をしりぞけ、人間の社會關係の一切をも自然科學的方法によつて因果的に説明しようとする。  かやうな時代的空氣の中から國家に關する異色ある學説の體系を編み出したのが社會學的國家觀の人々である。  社會學的國家觀は一八三八年にオーストリーに生れたグムプロウイッツにはじまる。彼の學説の骨組は國家の起源が異種族間の征服にあること、征服種族が支配階級となること、國家の本質は階級支配にあること、國家の進化は諸々の社會群の間の權力獲得の鬪爭を通じて行はれること、人種鬪爭と國家の階級支配とは永遠の輪廻的運命であること等できる。その論理は鋭利で實證主義的であり、かつ悲劇的な調子がある。同じオーストリー生れでグムプロウイッツより年下であつたラッツエンホーフェルは同じ思想を發展し、社會法則は自然法則と同じ普遍的必然性をもつもので、人間社會を支配する最も根源的な法則は集團間の鬪爭であつて、その集團間の抑壓關係が國家であるとした。法律的秩序はなにも理想的なものではなく、實際の利害關係の要求から生れたものにすぎない。し。しかし彼は、國家が征服國家から文化國家へ進化するとかんがへた。  二十世紀に入つて社會學的國家觀を發展したのはオッペンハイメルでその名著國家論はかつて邦譯せられたことがある。彼はユダヤ人であつたから先年ナチスから追はれて日本に亡命し横濱に住んでゐたことがある。彼の説はグンプロウイッツや、ラッツエンホーフエルの悲觀主義に較べると樂觀的である。彼は人間を動かす最も深い力は戀と飢(リーベ・ウンド・フンガー)であると考へる。人間がその慾望を滿たすのには二つの方法がある。第一は勞働を等價に交換するもの、第二は地人の財貨を暴力的に掠奪するもので、前のものを經濟的手段、後のものを政治的手段と名づける。オッペンハイメルは人類地理學(又は政治地理學)の創設者で同じ社會學的國家觀の流れを汲むラッツエルの理論から學んで國家の起源の問題に遊牧族及び農業族の二つの範疇を提出した。軍事的な遊牧族が平和的な農業族を征服することから國家が成立するといふのである。國家は政治的手段の組織されたもので階級對立を内容とするとなす。彼はグムプロウイッツの思想を豐富な歴史的事實や人種學的材料から一層精密に證明したのであるが、しかしグ氏のやうに國家を人類永遠の輪廻的運命とみずして、人類の歴史は經濟的手段が次第に政治的手段にかはる過程であるとなし、將來政治的手段たる國家の全く消滅することを想定し、これを自由市民社會と名づけ、彼自ら社會自由主義者と稱した。  この社會撃的國家觀の學説は、國家の起源について有力な實證的理論を提供してをり、殊に征服の意義をあきらかにした功績がある。しかし國家はかならずしも二つの人種的、社會的の集群の接觸關係のみから出來るのでなく、元々一個の集群の内部から發生するもので、それが征服關係の發生によつて鮮明になるにすぎぬ。同樣に階級も一個の社會の内部から發生するもので、征服被征服の關係からだけで成立するものではない。國家を階級的搾取の組織だとするのはマルクス主義の國家論と同樣で、あまりに單純な議論である。國家が階級關係を超えて、民族を中核とする共同社會的意義を帶びて、それ自身一つの力として人類の進歩に貢献してきたことを見落してならない。 ###スペンサー(一八二〇-一九〇三)  十九世記の半ばになると、自然科學の勝利が社會的學問に種々の影響を及ぼしたが、社會を以て生物有機體と類似のものとなし種々の類推を試みたところの社會有機體説もその一つである。その主要の代表者はスペンサーである。彼の大著綜合哲學體系十一卷は一八六〇年から一八九三年にかけて出版された。  スペンサーが科學的思惟の根本條件としたのは進化といふことである。彼は物質の不減、運動の持續、力の保存を先天的眞理と見なし、全體的世界過程は物質と運動、進化と分解、生と死との絶えざる交替であり、進化とは全體の無關聯状態から聯關状態への推移、無規定的な同質性から規定的な異質性への推移であると考へる。無機的進化から有機的進化へ、さらにつゞいて超有機體としての社會の進化が現れる。社會的有機體は外的形態が缺けていたり、社會を形成する各部分が空間的に離れていたりするけれども、單なる個人の集合でなくして、個人より獨立した一本質であり、生物有機體と類似した點が少くないから、生物學の法則を以てする類推が可能である。社會有機體は人爲的に生じたものでない。あらゆる進歩は人間がその自然的及び社會的環境に絶へず適應することから起る。生存競爭と適者生存の理がこゝにも支配する。善とは進化を促進するもの、惡とは進化を阻害するものだとせられる。  スペンサーが社會の進化を軍事型社會より産業型社會への推移と特徴つけたものは有名である。軍事型社會は原本的な社會型で、強制的勞働が支配し、社會と社會との間に不斷の戰爭があり、社會は之に備ふるために萬能力を與へられ、個人は無力で、個性の發展がない。産業型社會は自發的共働によつて成り立ち、社會間の關係は平和で、戰爭の代りに産業が重要な活動の對象となり、社會は個人の自由な活動を許し、個性が成立する。かやうな意味からスペンサーは個人主義を讃美する。彼は、社會主義の到來は必然であるけれども、それは世界がかつて經驗せる最大の不幸で、最も鋭き形の武斷的專制主義に終るであらうと言つた。この豫言は個々の點で含蓄があるが全體としては當らないものである。  スペンサーは一種の不可知論を唱へた。彼は、人間の思惟は最後の不可知者へ導くが、それは事物の探知すべからざる内的本質であつて、永久に人間のまへに姿を現さないだらうと言つた。しかし彼の不可知論は相對論であつて、存在は不可知であるが、生成は可知的だと考へるのである。  スペンサーの社會有機體の説を發展して、有機體學派といふ名をとつたものに、ドイツのリリエンフュルド、シェフレ、フランスのエスピナス、ウオルムス等があつて、それ/゛\特色ある理論を立てた。しかしスペンサーが自然及び人間を通ずる進化の形相を展開した發生的研究の成果は大きかつたが、元來發生的研究は認識の一方法にすぎず、且つ生物進化論の諸原則を社會に類推的に適用することは方法論的認識論的に誤謬である。スペンサーの體系の諸區分は内的必然性に缺けているといふウイーゼの非難も妥當であらう。とはいへ、彼の體系には有益な具體的材料の豐富さとともに、價値ある理論的抽象も含まれている。之に比すれば上に名をあげた有機體學派は今日ほとんど影響を殘さずに亡びてしまつたほどに、餘りに生物學的であつた。  なほ餘談であるが、日本の明治年代の政治家(伊藤博文等)はスペンサーに色々政治的意見をきき、その親切な助言を得たのであつたが、スペンサーは日本はいかなる手段をつくすともいつかはヨウロッパの植民地となるべく運命づけられていると考へていたそうである。彼が一八九二年(明治二十四年)に金子堅太郎にあてた手紙が彼の死後一ヶ月(一九〇四年一月十八日)くらひでロンドンタイムズに發表された。その手紙は、彼が同國人の怨を受けたくないから生前に發表されては困ると言つていたのだそうである。その手紙は頗る興味があるから、その前半を引用して今人の參考に供しよう。「貴國(日本をさす)は歐米諸國との條約改正によりて、外國の資本に對して全國を開放することを提案致され候樣相見え候が、小生はこれを貴國の安危に關するものとして寒心に堪へず候此結果が恐らく如何なる者を齎らすかは印度の歴史を見て明かなるべく候強大なる民族の一をして一度立脚地を得せしめば歳月を經る間には必ず侵略政策を生じて其結果は日本人との衝突を來す事と相成るべく候然る上はこれらの攻撃は日本人の加へたる攻撃と詐稱せられ、其場合に應じて必ず報復を受くべく候領土の一部は占領せられて外國植民地として割讓の要求を受くべく其結果終に日本全土の服從と相成るべく候貴國はいかなる場合においても此運命を避くることは甚だ困難と存じ候へ共小生が指摘する事項以外に外人に對して何等かの特權を許可有之事と相成り候はゞ此運命は容易に來る事と信じ申候云々」(小泉八雲、神國日本所引) ###マルクス(一八一八-一八八三)  マルクスは一八一八年に生れ一八八三年に死す。ユダヤ系のドイツ人。いはゆる科學的社會主義の創説者。かれの名を冠したマルクス主義は世界の勞働者運動に偉大な影響を與へてきたし、いまも與へつつある。  人類社會に私有財産と階級分裂が發生してから、無階級の共産的社會を憧憬し思索する思想的努力があらはれてきたが、社會主義思想といふ明確なかたちをとるやうになつたのは資本主義が成立して資本と勞働との階級對立が鋭くなつてからのことである。この社會主義思想も最初は論理的人道主義的に説かれてゐたが、資本主義から社會主義への移行を社會發展の必然的過程として説明するに至つたのはマルクスが最初である。だから彼の説を科學的社會主義といふのである。  日本にはマルクス主義の盲目的な信奉者が今も少くない。私も以前そうだつたが今はマルクス主義が世界の新しい現實の發展に適合しなくなつた部分の多くなつたのを感じてをり、特に敗戰窮乏の日本を建て直す原理にそのまゝなり得ないことを信ずるやうになつた。マルクス主義は餘りに科學的でありすぎて、大切な人間性には目もくれず、社會の道徳的基礎に深い關心をもたぬから、原初的なマルクス主義に基礎をおく運動は人間味のない、むしろそれと對立した乾からびた陰慘さをもつに至る。社會や人間に關する學問で人間味そのものを切り捨てたものはほんとうの科學とはいへない。私は新しい社會の建設をこゝろざす人々の世界觀として唯物史觀はそのまゝでは不適格だといふ意見である。  それはとにかくとして、マルクスの政治哲學を述べてみれば次の如くである。  第一にマルクスは過去一切の歴史は階級鬪爭即ち抑壓者と被抑壓者との鬪爭の歴史であるとする。而して國家とは階級抑壓の機關にほかならない。權力の機能は抑壓であり、國家がその組織である。國家の特質は常備軍や監獄などである。近代國家はブルジョアジーのプロレタリアートに對する抑壓機關である。議會政治はブルジョアのためのものであり、ブルジョア民主々義はけつきよくブルジョアの自由と利益のためのものにすぎない、といふのである。  プロレタリアートの階級利害は國家を超越する。萬國のプロレタリアートは自國を超へて國際革命に邁進すべきであり、またその必然がある。自國革命は第二義的であり、それは國際革命に從屬する。だからエンゲルスは「共産主義とは何か」といふ小册子のなかで、社會主義革命は一國的規模において起らずして資本主義諸國に同時に起るであらうと書いてゐる(この「豫言」はミゴトにはづれた。)  プロレタリアートは暴力を以てブルジョアジーから政權を奪取すべきである。資本主義から共産主義への中間段階にはプロレタリア獨裁の期間が介在する。ブルジョアジーの民主國家は少數のブルジョアが大多數のプロレタリアを抑壓する機關であるが、プロレタリア國家はその逆である。大多數者の少數者に對する獨裁といふことがプロレタリア國家の本質である。  階級抑壓の行はれるのはけつきよく生産力の發達の未熟なるに原因する。プロレタリア國家では生産力が十分に成熟して階級抑壓の必要なきにいたり、こゝに國家が自然死を遂げ、人類歴史の前期が終りその後期が展開するやうになる、といふのである。  以上のマルクスの政治觀は一見鮮明かつ鋭利であるが、激越なる空想や、利己的な階級主義や、主觀的な機械的構想のあることを免れない。  歴史上に階級は大きな役割をしたが、一切の歴史を階級鬪爭に還元するのは餘りに單純すぎる。國家も權力も單なる階級抑壓のためのものばかりでない。人類社會の發達に國家や權力は肯定的役割をもはたしてゐる。勞働者が自民族を忘却して直に世界プロレタリアートとして團結するといふのは明かに事實に反してゐる。勞働者が自國を愛してゐる。民族愛はなほ依然として歴史の強い心理的條件である。革命が國際的規模において起るといふエンゲルスの提言は完全に空想だつた。革命はつねに一國的規模において起る。革命は一國民一民族の命がけの仕事で、國際主義といふ理想だけで革命が起り得るものでない。暴力革命やプロレタリア獨裁といふ思想は民主々義と背反するものである。總じてマルクス主義において人間の相互愛とか倫理的要求とかいふやうな道徳的動機を餘りに無觀してゐる缺陷がある。それはこれらの道徳的要請を餘りに強く説いたマルクス以前の所謂空想的社會主義に反撥したためであつたとはいへ、社會主義もけつきよく人間そのものに役立つためのものである以上、人間的な暖さや明るさを失ふものであつてならぬのである。要するにマルクス主義にはすでに二十世紀人に適合しなくなつた前世紀的なものが多分に含まれてゐる。マルクス死後、世界史にはかれの豫想もしなかつた新現實がたくさん成立した。すべて善き思想は前代の思想の批判――克服と保存――の上に成立してゐる。日本は遲れた國であるけれども我々は既に前世紀的なものを少からず包含するマルクス主義をそのまゝ鵜呑にせずにこれを批判的に克服し攝取すべきである。我々にとつて何より大切なのは日本の現實であり、日本革命そのものである。 ###レーニン(一八七〇-一九二四)  レーニンは一八七〇年に生れ一九二四年に死す。ロシア革命の大指導者であり今日のソ聯のいはゞ國父である。哲學者にして大戰略家、高貴なる性格、近代世界史における第一等の大政治家である。  レーニンはマルクス主義の忠實な信奉者であつたが、阿流的な死文字の奴隷でなくて、よくマルクス主義のロシア化に成功したものだ。いはゆるレーニン主義の主要特徴に次のものがある。  第一にレーニンはその思想の哲學的基礎として唯物辯證法を深めた。彼は優に一流に伍する哲學的頭腦である。  第二にかれは帝國主義についてすぐれた政治學的經濟學的分析をして自己の鬪爭對象の正體をつきとめた。彼は帝國主義段階分析をして自己の鬪爭對象の正鶴をつの法則、戰爭の必然、帝國主義戰爭との法則、戰爭の必然、帝國主義戰爭と民族戰爭との連關等をみごとに發見した。  第三にかれはプロレタリア・ヘゲモニーのマルクス理論を展開してソヴェート權力を基礎づけた。  第四に勞働者と農民との階級同盟の思想を展開しかつ實踐にうつした。  第五に遲れた國においても社會主義の可能なることを理論的にも實際的にも證明した。スターリンの一國社會主義論はレーニンの思想の繼承發展にほかならぬ。  第六に植民地革命の理論を展開した。植民地民族の反帝國主義運動が世界プロレタリアートの利益に一致することを證明した。  第七に前衞黨の理論及び實踐はレーニンのかゞやかしい業績である黨の細胞を工場農村等の生産點に築くことは彼の創意に成る。黨と大衆團體との關係ついての彼の思想がよく理解されたら、今日の日本にみる如き小兒病的過失は避けられる。  第八に彼は第三インタナショナルを創設した。彼は徹底的な國際主義者として、モスカウに本部をおき、各國の共産黨をその支部たらしめ、以て世界的な中央集權的革命運動を行ふ構想をした。しかしそれはまだ時期尚早であつた。だからレーニンの後繼者たるスターリンはレーニンの最大の國際的遺産であつたこの第三インターナショナルを惜氣もなく解體した。しかしもちろんこれは共産主義運動の國際的連絡を斷ち切ることを意味しないであらう。  レーニン死して二十年、かれの思想もすでに古典となつた。こゝでも批判による克服と攝取が必要だ。ことに遲れた國における社會主義の可能についてのかれの思想からは多くを學びうる。日本人たるわれ/\は全て外國の思想や經驗を、日本を本位に、日本人の自力を信じて、日本の利益のために、學べばよい。レーニン主義についてもそうである。 [#改ページ] 佐野 學 ――西洋社會思想史―― 定價60圓 九州書院  株式會社  出版協會々員番號   A 211257 昭和二十二年九月十五日 印刷 昭和二十二年九月二十日 發行 印刷所 文化印刷株式會社   代表者加 加藤 新     東京都千代田區神田神保町一丁目四十六 發行所 株式會社九州書院     東京都港區琴平町一     電話芝(43)1564 配給元 日本出版配給株式會社     東京都千代田區神田淡路町二丁目九番地 [#本文終わり] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1061941 [#1字下げ]佐野學(1947)『西洋社會思想史』九州書院. 入力:A-9 このテキストは、フロンティア学院図書館(https://arkfinn.github.io/frontier-library/)で作成されました。